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​続・テキストアートの真理

2015

インド行以来ぼくが日夜勉強してきた「空」 テケストアートにおける形式の概念化と様式美の追求は 対義である内容を極限までそぎ落とし デフォルメし カリカチュワし 屁コいて寝ながら それでもあえて省略し続けた「スペース」とは 虚空の認識想像力なのである

ぼくはオモコ(思い込みのこと)していた それが

 
ある日突然 形而上学であるゆえのクリティシズムに晒された 形而上学とはコントによれば世界の根本原理と究極原因を探求する学問である 神ってるとゆうようなゆい草はなんだ フツーはそげな問いに答えることはできないのに そもそも問い続けることが本領であるとゆうのにだ コントは 必要なのは絶対的で形而上的な「哲学的」真理ではなく人間が必要とする実証的な知識であるとゆうた マルキシズムは間違っていた なぜならマルキは水に浮くからである ヴィトゲンシュタインは言語論的転回をドナイシタインよと問うた もはやツールはオシッコするだけのものなのか

 
ぼくはなにも世界の存在とか意味の謎をキワめようとしているのではない カントのゆうように世界の根本原因や究極原因は「モノ自体」なのであって原理的に認識できないことをシリ コト・モノを切り取ってコラージュしているだけなのだ それがパピエコレである 認識が不足していればシュールレアリストか天才科学者になれるとゆうたのは221だが 認識論の問題としてはスピノザ的理神論とヒュームの相対主義的経験論の中道 つまりカントの先験的観念論により創作する 具体的にはミメーシス(模倣)が一見楽チンなのである これをアプリオリはべりいまそがり とゆう

 
人はおよそ事物を「直観」によって知覚し認識する これは我々の五感の知覚を通して意識に現れる 221によれば五感とは快感・性感・霊感・痛感・劣等感のことである この人間の感覚による直観を感性とゆう しかし認識の過程は感性だけでなく さらに悟性と理性の働きが必要だ 概念的判断力と推論能力である とにもかくにもまずは直観ではあるが そこで多様な感覚的印象をまとめ上げる感性の形式性を考察とマーゆうことにしよう
これも221と思うが「あっアタシ今妊娠したわ」とゆうのが直観であり 癖は本能時にありとゆえど  我々の理性はそこでそそくさとパンツを履き直すのであった
つりたくにこは理性が寝れば悪夢が生まれるとした

 
事物対象は「外感」 内的状態は「内感」に依って受け取られる このとき「外感」の受け取りは「空間」とゆう基本形式を持ち 「内感」の受け取りは「時間」とゆう基本形式を持つ ほたら空間と時間とは何か 空間とは隙間よりは広いが拘束時間よりは狭いものである 空間そのものが全く存在しない状態を考えることは不可能である それは物自体ではなく外感による現象の形式であり 感性の主観的条件であるからだ 物自体は経験においては全く問題にならない 一方 時間とは時間とは時間とは)(時計の副産物でありネジを巻かないと拗ねるるる これがないと人は順序や同時性を認識できないが 和歌山人は市役所が東経135度10分の位置にあるため勝手に解釈することができる 経験的知覚はあるものが「かくかくしかじかである」ことを教えるが 先験的な直観はあるものが「かくあるべき」ことを教える しかしこれは時間も空間ももうどない転んで見てもホンマにリヤルなものとしてあるがママに捉えられる とゆうオモコなのであって 感性的直観の純粋形式なのであるからそれをまた悟性と理性によって判断し思考する固有の形式を

 
えーぃっ ぢゃかましわっ

 
そげな認識論の無理難題が人間の観念の本性それ自体を考察すればホンマに解明できるとでも思っているのか?

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