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​二百日紅

二百日紅 しょの1

 その昔 変チキなおいちゃんがおりまして

 

文化元年四月 江戸音羽護国寺百二十畳敷の紙に大達磨を描く

 

 名を鉄蔵と

さらに両国回向院でも布袋の大画を描き

 世に絵師の北斎と知られる

その直後米粒に雀二羽をたちまち描く また 升 卵 徳利 爪など あらゆるものに墨をつけ画を描き 左手にても描き 下から上への逆絵も即座に描いたとゆう

 

 門下は数あれどその還暦から二百年後またひとりの絵師が門を叩いた

・しょの2

 

鉄蔵が数ある画号の中で「葛飾北斎」を名乗ったのは文化2年(1805年)の頃である

時の将軍家斉は第11代将軍(天明7年~寛政・享和・文化・文政~天保8年まで)である 特定されるだけで16人の妻妾 子供は男26人女27人とゆう 老中は田沼意次を罷免し松平定信~信明~水野忠成~忠邦

この家斉が あるとき北斎が絵を描くところを見たいと浅草伝法院に招いた

1人目谷文晁がまともな絵を書き、2人目に北斎が御前に進み出たが恐れる気色なく、まず普通に山水花鳥を描いた。次に長くつないだ紙を横にして刷毛で藍色を引いた。そして持参した籠からだした鶏の足に朱を塗って紙の上に放ち、鶏がつけた赤い足跡を紅葉に見立て、「竜田川でございます」と言って拝礼して退出した。一同はこの斬新な趣向に驚嘆した。

とゆうことだが 当時「お目見え」(将軍に拝謁すること)はたいへんな栄誉

そして件のニワトリは怯えて走らなかった そこで北斎は筆から無作為に墨を何滴か垂らしそれを指でなぞって龍の絵を即興で描いた とゆうのが杉浦の漫画で これは別のエピソードとあわせたものである こうゆう趣向の逸話は他にもたくさんある

鉄蔵は褒美に最中と五十両を貰い 女弟子北明こと井上政(28歳※たぶんイロですね)のとこへ行ってその鶏で鍋をつついた 家では帰宅の遅い鉄蔵を娘お栄(葛飾応為)がひとりで待っていた

白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

江戸中期、白河侯松平定信が行なった「寛政の改革」がわずか6年で幕を閉じたのは、民衆による強い反発によるものだった。厳しい財政改革が経済を停滞させ、文化も廃れさせたことが原因だった。たとえ腐敗政治だったとしても、生活も豊かで文化も花開いた以前の華やかな「田沼時代」が恋しいと、失脚した老中田沼意次を民衆は懐かしんだのだ。そのときに生まれた歌がこれだ。寛政の改革と田沼の腐敗政治をくらべて風刺した狂歌である。

一方で

 

生没年不詳とゆわれる 東洲斎写楽は 約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られる

北斎と同一人物とゆう説まである

一ノ関圭の「鼻紙写楽」では市川團十郎を交えて田沼との関係がミステリタッチで描かれている

・しょの3

鉄蔵(北斎)は土王星の辰である

 

奇人とゆわれるのは 行儀作法を好まず 片付けが嫌いで家はゴミ屋敷 整理ができなくなったら引っ越す(93回)とゆう生活 金には無頓着なので基本的に貧しい 煙草も吸わず酒も飲まなかったとゆうのは確かではない 三食みな店屋もんで 家には食器すらない 出戻りで同居の助手を務めた娘(お栄※後述)も同じような性格 ただひたすら絵を描くだけ たまにぶらりと取材に出かけるが放浪癖はない

かけ出しの頃は師匠から春朗の名を貰ったが破門された 理由は諸説ある 勝川派と決別したのは35歳の頃で俵屋宗理と名乗る(改号は30回) 琳派の祖とされる俵屋宗達(生没年未詳)との関係性は不明

30~40代は当時の浮世絵ブームからやや距離を置き 文芸界の交友関係を中心に仕事を受け粛々と絵を描いた なかでも曲亭馬琴(1767-1848)との最強タッグ『椿説弓張月』などのヒット作は有名で 一時期馬琴宅に居候している これは50代の「北斎漫画」に繋がる

『椿説弓張月』は源為朝(源頼朝・義経の叔父)の話 馬琴は几帳面 毎日のスケジュールは同じ 物書きだけで生活できた最初のシト 延々と執筆するが毎日一字一句の細かいチェックにかまけて校正の方がたいへんだったとゆう 北斎とは親友でコンビ解消の原因は不明

 

その他この時代の人物に 司馬江漢がいる ぢつわ浮世絵師の鈴木春重のこと ポイントは洋画の研究 これは友人の平賀源内の影響である 源内もまた奇人変人であり 日本のダビンチみたいなシト 逸話は多い 映画も小説もある 酔っぱらって殺傷事件を起こし投獄され獄死したとゆうことだが 友人の杉田玄白の計らいにより逃げ延び 田沼意次に庇護され天寿を全うしたとの説もある

 

とゆうことでこれら同時代人の交友関係がどうであったかを推測するのは楽しい

 

平賀源内 (1728-1780)

杉田玄白 (1733-1817)

工藤平助 (1734-1801)

中川淳庵 (1739-1786)

大槻玄沢 (1757-1827)

橋本宗吉 (1763-1827)

田沼意次 (1749-1788) ※父は紀州藩士で吉宗側近の田沼意行

松平(越中守)定信 (1759-1829) ※吉宗の孫 寛政の改革

 

司馬江漢 (1747-1818) ※鈴木春重

蔦屋重三郎(1750-1797) ※版元 歌麿 写楽を育てる

鳥居清長 (1752-1815)

喜多川歌麿 (1753?-1806)

 

葛飾北斎 (1760-1849)

葛飾応為 (?-?) ※お栄(三女)

山東京伝 (1761-1816) ※北尾政演

黒鳶式部 (1771-1788) ※京伝実妹よね

東洲斎写楽 (1763?-1820?) ※1794-1795のみ145点余を版行 斎藤十郎兵衛説が正しければ今年は没後200年

市川團十郎 五代目(1741-1804) ※写楽画

瀬川菊之丞 二代目(1741-1773) ※「正宗娘おれん」は北斎デビュー作

曲亭馬琴 (1767-1848) ※滝沢

 

徳川家斉 (1773-1841) ※第11代将軍

 

歌川国貞 (1786-1865) ※最大派閥歌川豊国の右腕 後の歌川派総帥(三代目)

菊川英山 (1787-1867)

渓斎英泉 (1791-1848) ※池田善二郎 菊川門人だが北斎宅に出入り

歌川国直 (1793-1854) ※善二郎と友人

歌川広重 (1797-1858) ※茶箱広重は実質二代目

歌川国芳 (1798-1861)

 

さて写楽が唯一活動した1794年(寛政6年)は 北斎が勝川派を破門された年である (外国ではフランス革命が起こっていた) なので同一人物説が出てくるのだろう

しかしこのとき北斎の小汚い家の門を叩いたのは

他ならぬ 踏襲斎茶楽(つまり軽茶一 成助)であった^^

・しょの4

鉄蔵(北斎)にミューズばるぼらはいたか

女弟子の政はおそらくイロであってミューズではない つまるところ 出戻りの三女お栄がそうだったのではないか

 

画号の葛飾応為は北斎が おーい と呼びつけることから来たものだとゆわれる アゴとゆうあだ名もあり 実父に人三化七どころか化十呼ばわりされもしたのはその似顔絵に伺えなくもないが NHK特番では宮崎あおいが演じたし 来年公開の映画では脚本を担当した河原れん自身が演じる 杉浦漫画でもそれなりに描かれていて 艶っぽい政とは好対照の しかし女である それは北斎に似て物事に無頓着で貧苦を厭わない上に 化粧も着飾りもしない 酒と煙草だけはやる 

美人画に関しては父北斎も負ける腕前を見せる 作品数は少ないが北斎の美人画は助手としてではなく応為自身が描いたものかも知れないとゆうこと

杉浦漫画では映画には出てこなさそうな若き英泉の善二郎や国直がからむ しかしお栄が気にしていた相手は違った

一方で映画は杉浦漫画には登場しない写楽が出てくる 一ノ関の写楽では北斎が登場しないまた違った解釈である

ここにどう茶楽ことかるちゃいちが絡むのか

源内でタイムトラベルテーマもよかろうとゆうことで 今回のお話しは

以下次回

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