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癖は本能時にあり

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2020年6月14日:午前10時
刻も今頃 日にちは1560年6月12日(旧暦では永禄3年5月19日)
ここ善照寺砦から目的地(桶狭間)まで走破できるか挑戦してみた
ちょうど雨も降ってきた

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癖は本能時にあり​ しょの1

ゼロ学的考察では現在は大運「未」の時代である
現在の「未」の時代は2010年に始まり2021年までがこれにあたる
大運とは十二支の時の移ろいにおいて12年さらにその12倍の144年周期の話

まず144年前の前回の未の時代に何があったかとゆうと 明治維新である
その144年前が享保の改革の頃であり
さらにその144年前がこの信長の時代

つまり未は変革の時代とゆうことだ

 

まず2010年の144×3年前とは1578年の天正6年
ここから天正18年までがこれにあたる
天正10年(1582年)が本能寺の変

 

親友の前田令洋先生からかつて聞いた話では


信長が火王星
秀吉が水王星
家康が木王星 とゆうことで今まで納得していたのだが

ゼロ学データでもう一度確認すると それぞれ誕生日が正確とすれば

光秀 1528年3月10日生まれは 木星の子年 (木)
信長 1534年6月23日生まれは 土星の午年 (土)
秀吉 1537年3月17日生まれは 海王星の酉年(木)
家康 1543年1月31日生まれは 冥王星の卯年(火)

なのである
 

本能寺の変は1582年午年6月申月21日寅日午前6時卯の刻は間違いないので

信長にとっては再開年充実月※土星+の場合で火星+ならゼロ年
光秀にとっては決定年人気月ゼロ日!精算時刻!
秀吉にとっては生長年健康月※木星-の場合で水星-なら人気年

人はゼロ期に死ぬわけではないので別におかしくはないし 光秀にとってはこれでも良いが
各々の性格についてはモシトツ面白くない

これはゼロ学が合わないのではなくて 生年月日がきっと間違っているのだ
令洋先生亡き今 確かめようがないが 彼を信じ 干支だけは正確とすると

光秀 子年 ?王星
信長 午年 火王星のゼロ
秀吉 酉年 水王星
家康 卯年 木王星のゼロ となる

そこで単年度における午年つまり 本能寺の変 1582年が
背信期の人は 火王星のマイナス
ゼロ期の人は 火王星のプラス ※信長
精算期の人は 月王星のマイナス

であるから 1528年子年生まれではなく
光秀は火王星の亥(1927年生まれ)
もしくは月王星の丑(1929年生まれ)ならどうだろう

信長の火行(火王星)にとって
午未は苦手で 申酉は興味があり 戌亥は無視で 子丑を目標に 寅卯を避けて 辰巳に安定する

光秀が亥年なら 信長からは健康相性 子年なら人気相性 丑年なら浮気相性だ

光秀が空行(月王星)なら
辰巳は苦手で 午未は興味があり 申酉は無視で 戌亥を目標に 子丑を避けて 寅卯に安定する

光秀が土行(土王星)なら
戌亥は苦手で 子丑は興味があり 寅卯は無視で 辰巳を目標に 午未を避けて 申酉に安定する

信長のゼロ王星は台風のようなもので周りは疲れる しかしぼくは光秀もゼロ王星とは思わない
なので火王星の午未や月王星の辰また土王星の亥ではない 亥年や丑年なら信長からは良い相性ではないが 信長は光秀を嫌っていない 怨恨説は正しくないのだ

信長が残虐的だとするのは江戸時代の新井白石の批判であって 明治になっては勤王家として神格化され 大戦後においても革新者として評価されている しかしまだ疑問な点は多い

大略 信長は光秀を本気でいじめていなかったと思う フロイスもゆうている 秀吉とNO2を争う位置であり信頼していたはずである 本能寺に討ち入られたとき相手が光秀とわかって 是非もなし と言ったのは何故かとゆうことだ もうひとつは 恨みを以って恩に報ずるの謂れ、ためし無きに非ず(惟任退治記) とゆうのもある ただこの書は秀吉の部下が本能時の数ヶ月あとに編纂したもので 秀吉の都合の良いように脚色されたと思われる

以下次回

癖は本能時にあり しょの2

 

Dday 4日前 今日は旧暦では天正10年5月27日

 

光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現(軍神)に参拝し その日は参籠(宿泊)した

(『信長公記』によると)光秀は思うところあってか 太郎坊(天狗)の前で意中の籤が出るまで三度おみくじを引いたと伝えられている

 

 

昨日のデータで 光秀の誕生日(1528年3月10日生まれ)が間違いないとすると

ゼロ学では 木星の子年である

 

木星はクール星であり 知的で 策略に長け 熟年者に縁がある マイペースで真面目にコツコツ 米粒に絵を描くこともできる 軽薄さとは無縁の慎重居士 スロースターターなので若いウチに成功すると晩年は良くない 誠実で義理堅く 秩序を守る保守主義者 会社への忠誠心は強い 一攫千金を狙うようなギャンブルはしない 人を押しのけて自己主張することはだめなタイプ

 

ではなぜ?

 

ちなみにぼくは木星のマイナスの海王星だが 最高のNO2とゆう番頭タイプであり 頑固な木星のプラスよりはもう少し融通が利く講釈たれ 酉を人気に持っているので ぴゅーと飛んできて ちゃちゃっとえーとこどりする才能に長ける

 

木行の場合

寅卯を苦手とし 辰巳に興味を持ち 午未に関心が無く 申酉を目標に 戌亥を避けて 子丑に安定し自己完結する

 

子年については 木星には安定した干支(充実)である

信長からもベスト相性である

逆に信長に対しては決定相性で公私ともに協力者となり得る相性 決定の文字通り決断の後押しをして貰えたり積極的な行動が出来るきっかけになるので 迷いが生じている時などには心強い存在になり信頼出来て頼りになるのだが

静かで穏やかな日々を好むようなばわいには刺激的なところもあり疲れる事もある

 

ではなぜ?

 

3月10日生まれについては 故令洋先生の師である故山本令奈先生によれば

 

努力と信念で大きな人生を全うする 自我が強く ワンマンだが指導力がある 個性的集団を造り トップの座につく 多彩な才人をまとめ上げる能力 陰ひなた無く働く勤勉なところは長所だが 短所は先頭を走らないと力を発揮できず とかく目先のことに囚われがち

 

ではなぜ?

 

 

以下次回

癖は本能時にあり しょの3

 

Dday 3日前 今日は旧暦では天正10年5月28日

 

この日 光秀は愛宕百韻を催した

愛宕百韻とは光秀が京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである

百韻は神前奉納されて写本記録も多く史料の信憑性も高いが 一方で連歌の解釈については異論が幾つかある

 

【発句】 ときは今 あめが下な(し)る五月哉 (光秀)

【脇句】 水上まさる庭の夏(松)山 (行祐)

【第三】 花落つる流れの末をせきとめて (紹巴)

【挙句】 国々はなほ長閑なる時 (光慶)

 

光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある 「時」を「土岐」「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている

あるいは「天が下知る」というのは朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある

また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は以仁王の挙兵 承久の乱 元弘の乱が起こった月であり いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから 平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる

 

しかし これらの連歌は奉納されており信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり 本意を知ればただでは置かないはずである)

また愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから この時点では謀反の決断をしておらず謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている

 

この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら 発句だけでなく第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)

まず「水上まさる」というのは 光秀が源氏 信長が平氏であることを前提に考えれば「源氏がまさる」という意味になる 「庭」は古来、朝廷という意味でしばしば使われている 「まつ山」というのは 待望しているというときの常套句である したがって この第2句は源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある

橋場日月は『明智光秀 残虐と謀略』の中で 第23句の「葛の葉の みだるる露や 玉ならん」の葛の葉が「裏見=恨み=不平・不満」を表す言葉であることなどに注目し 信長との方針の違いが歌に込められていると解釈した

 ー wiki その他より

 

光秀は前日の愛宕権現で何度もおみくじを引いたように

もっと前から決意していると思われるので 当然この連歌に秘めた想いはあったはずだ

もちろん これも意図的に書き替えられたとゆう説もあり ご子孫の明智憲三郎氏も独自解釈を出している

 

以下次回

 

※これにちなみ 連歌の催しをしました結果

 

連歌 一

【発句】歳も経て 涸れし涙も さつきまで(軽茶)

【脇句】憂きに耐えつつ 夏越しの祓い(三恵)

【第三】今や昔 春の足音 懐かしき(五茶)

【挙句】庭に興隆 七変化華(無茶)

 

連歌 二 (回文含む)

【発句】喫茶にて せっせと節制 手に皐月(軽茶・回文)

【脇句】紫手にし 偲ばん式部(五茶)

【第三】幼さを 愛(う)いと手回し 恥も何(な)も

【挙句】しばしは待てと 言う幼さを(※若紫を詠む回文)

 

連歌 三 (軽茶・自己完結例)

【発句】夢现(うつつ) ぶんぶぶんぶと 五月蚊の

【脇句】国盗り果取り 戦功菩提

【第三】五十路なる 憂ひの亀山 いま越えて

【挙句】合点のうちに 喰らふ幻

癖は本能時にあり しょの4

 

Dday 2日前 旧暦では天正10年5月29日

 

光秀は弓鉄砲の矢玉の入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊を西国へ先発させた

信長は安土城を留守居衆と御番衆に託すと「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて 供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し 同日 京での定宿であった本能寺に入った

※当時の本能寺は現在とは場所が異なり 東は西洞院大路 西は油小路通 南は四条坊門小路(現蛸薬師通) 北は六角通に囲まれた4町々(1町)の区画内にあって 東西約120メートル南北約120メートルという敷地に存在した

 

 

信長の誕生日について再考する

 

wikiで信長の誕生日は 天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日 グレゴリオ暦1534年7月3日)あるいは天文3年5月28日である

 

現在使われているのは太陽歴のグレゴリオ暦で江戸時代までの旧暦・太陽太陰暦と違う新暦である この違いは閏年の考え方だ

 

信長時代に京都で使われていたのは中国から伝わった宣明暦をもとにした京暦 関東では三嶋暦を使用していて 信長は天正3年に三嶋暦に統一するよう朝廷に申し入れるが却下される

 

ここで旧暦6月1日 部分日蝕が起こる 日蝕は為政者の威信が傷つくので御所を菰(こも)で包むのだが これを宣明暦では予測できなかったのである しかし信長は知っていた そして彼の主張通り日蝕が起こり シトびとは信長は魔王であると実感した そこでまた信長は三嶋暦への統一を持ち出すが それはかなわなかった

 

なぜならその翌日に本人が死んだからである

 

西暦は 信長の死後5ヶ月経ってようやくユリウス歴からグレゴリオ暦に切り替わる ずれがあるため1582年10月4日(木)まではユリウス暦を使い 翌日はグレゴリオ暦の1582年10月15日(金)となった(外国の話)

 

日本独自の暦は 貞享2年(1685年)に宣明暦から貞享暦に変わり さらに宝暦暦(1755年から使用)寛政暦(1798年から使用)天保暦(1844年から使用)と変る 日本で西暦(グレゴリオ歴)が採用されたのは明治5年である

 

 

信長が日本で最初にお誕生日会をやったとゆう話がある

 

フロイス『日本史』によると信長は天正7年5月11日?に安土城で自らを神とする儀式を行い 総見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め 参詣する者には現世利益がかなうとしたとゆう

但しこの話の信憑性は薄い このときフロイスは安土周辺にいなかった

 

しかし 本能寺の変の日より19日前の天正10年5月12日 この日に「己の祝い」をしたので5月12日が誕生日とされているわけだ

 

とゆうのは 信長に何度も面会したイエズス会宣教師ルイス=フロイスは「信長の神をも恐れぬ態度は、神が彼の誕生日の後、19日以上生かしておく事を許さなかった」…と記しているからである 総見寺の功徳では『第三に、予の誕生日を聖日とし、当寺に参詣することを命ずる』とした

 

これが書かれたのがユリウス暦1582年6月19日 日本の宣明暦でいう6月2日 つまり本能寺の変当日である

 

そこでユリウス歴で考えるのはおかしいとゆうことでグレゴリオ暦で見ると

 

信長の満48歳の誕生日は 1582年7月3日

本能寺の変は 1582年7月1日 になるので

 

つまり太陽歴では満48歳の誕生日を迎える2日前に死去したことになり 太陽太陰暦の誕生日19日後ではなくなるのだが 実はこの理由は閏月のあるなしによるズレである

 

ちなみに太陰暦のばわい一ヶ月は28日か29日で 天文3年は1月のあとに閏1月があったが 天正10年は閏月がなかったのだ

 

そのためか? wikiではユリウス歴で書かれていて 本能寺の変もそうである

 

 

さて このデータだと信長の星は ユリウスでは土星 グレゴリオでは金星 になる 午年は同じ

 

また話がややこしなった^^

 

他には『改選諸家系譜』という江戸時代に編纂された織田系図によると 信長の誕生日は5月28日とされている

このばわいに

信長は火星なのであった

​以下次回

癖は本能時にあり しょの5

 

Dday 前日 旧暦では天正10年6月1日

 

光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した

斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは 午後6時頃(酉の刻)のことであった

 

木星にとって酉の刻は人気時刻である(厳密には浮気時刻)

 

光秀は軍議を開き ここで初めて重臣達5名に謀反の計画を告げた 兵達は知らされなかった

亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが 光秀は「老の山(老ノ坂)を上り 山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせた

 

歴史はいごいた

 

 

 

さて 光秀はなぜ別心したのか

 

50以上もの説があるのでテキトーに検索していただくとして

福知山で行われた原因説50総選挙では

 

圧倒的1位は 暴君信長討伐説

2位は 秀吉黒幕説 ※秀吉実行犯説(5位) 秀吉家康光秀謀議説(11位)もある

3位は 怨恨説

 

少なくとも秀吉は黒幕ではなく光秀が何かしでかしそうだとゆう危機管理意識の強さによる即処と思われる また秀吉は後に自分の都合の良いように資料を書き換えている

野望説も怨恨説も違う ほとんどが後の時代の脚色ゴシップである

最近では四国説(長宗我部問題)が有力になっているが 複合説だとおもしろくない

 

 

ぼくの推論は 次回

癖は本能時にあり しょの6

 

Dday 当日である まさに今 いちごぱんつ6月21日午前四時 旧暦では天正10年6月2日寅の刻

 

木星の子(ねずみ) 光秀にとって

決定年人気月ゼロ日ゼロ時刻ゼロ方位

人気とゼロの組み合わせが火花を飛ばす

 

未明 桂川に到達すると 光秀は触をだして馬の沓を切り捨てさせ 徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ 火縄を一尺五寸に切って火をつけ五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した これは戦闘準備を意味した

 

ここで有名なあの言葉を唱えた(江戸時代中期の明智軍記の中にある記述で裏付けには乏しい 頼山陽創作説もあるがここではやはりそう叫んだとするのがロマンである)

 

それまで家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたともゆわれている

桂川を越えた辺りで夜が明けた 先鋒はいわくの斎藤利三

午前4時頃寅の刻 光秀木星のゼロ(種)時刻 明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた

蘭丸が物見して「明智が者と見え申し候」と信長に伝えると

これも有名な言葉「是非に及ばず」と答えたのは 光秀の性格と能力から脱出は不可能と悟ったからである

既に御殿には火がかけられ観念した信長が自害するのは卯の刻あたりと思われる 木星の精算時刻 討ち入り終了は午前8時頃辰の刻なので 信長にとって寅の刻から辰の刻までは秋 結実~熟~落果 光秀にとっては冬 種~凍~芽

 

しかし信長の遺体は見つからなかった

 

あれだけの木造建築物が丸焼けになれば当時の調査力では特定の人物遺体を捜すことは無理である

このため生存説を否定できず 諸国の武将達は光秀に従うことができなかった

そこでさまざまな異説がある

極めつけは黒人奴隷弥助とともに逃げ延びてアフリカに渡ったとゆうもの(現地にそれらしき東洋人が来たとの言い伝えがある) 義経が大陸に逃れチンギス・カンになった(時代が違うが)とか 秀頼が九州まで逃れ息子が天草四郎とかゆうようなものだ

 

でわ同じく遺体の見つからない光秀は?

 

 

 

そして光秀はなぜ別心したのか しょの2

 

ぼくの推論は

 

信長(火王星の午※ゼロ)光秀(木星の子)の性格や相性から見てふたりの性格の不一致はない

多少のパワハラくらいでは木星の性格にいてもちゃれとゆうほどの逆心はない

 

しかしゼロ王星はときに暴走する台風の目である

また火行は 粘り強くて思慮深い知性派(ここは最近の信長像の見直しである) クールに見えても強い意志と情熱を秘めている 勝負師として名を残す 頑固で協調性を欠き 正しさを主張する態度に他人はついて来れない またプライドを傷つけられるのを嫌うので 途中で挫折したときのもろさもある

 

だからこれを何とかしたいとは思っていた 木星の

「優柔不断」を後押しした要素がどこかにあるはずだ

 

 

ここに もうひとり生年月日も没年もわからない人物がいる

 

 

それは 帰蝶(濃姫)である

 

 

いちおう1535年生まれ(信長のひとつ下)だけはわかっていて未年だ

もし彼女も火王星ならゼロであり フィクサーもあり得る

組織の一員よりフリーの仕事において男性以上に能力を発揮するのだ

今回の大河で新たに描かれた帰蝶像はご存じだろう

 

信長とは背信相性(良かれと思ったことが裏目にも出やすい相性)

 

帰蝶と光秀とはお互いに健康相性(トラブルを乗り越えていく事で絆が深まる相性)

 

五行説では「相生」「相剋」「比和」「相乗」「相侮」の相関関係があり

木生火 火生土 木剋土 火剋金 そして 水生木 水剋火

である(※秀吉は水=黒幕か?)

同じ気が比和するとますます良いかますます悪くなる

相乗は 相剋が度を過ぎたもの

また相侮は 相剋ではなく反剋(逆転)となる

 

本来 木は火を討ち滅ぼさない 逆である 木は火を産む

これでは説明はつかない

しかし 木は燃えて火を産むが燃え続ければ火は衰える 水は木を産むが溢れ続ければ木は腐る

森羅万象には相生・相剋の二面があって穏当な循環が得られるが 何かがそれを乱したのだ だから三日天下なのである

 

信長と帰蝶が火行のゼロであること さらに陽(午)と陰(未) そして【男】と【女】の間があることを前提にすれば

本来フツーのシトである木行の光秀がこの二人に挟まれて 【夜】と【朝】の間にどんな夢を見たのか

 

 

 解は本能にあった

 

 

再開する大河はオチをどうするつもりなのか楽しみである

 

ぼくのオチがわからないって?

この推論を検証したらNHKに投書するので大河の結末を見なさい^^

 

​以下次回

癖は本能時にあり しょの7

 

本能寺の変で解明されていない四つの謎がある

 

1 信長はその日何をしようとしていたか

2 光秀はなぜ信忠を見落としていたか

3 光秀はなぜ迷わず安土城に進軍したか

4 信長はなぜ無警戒で本能寺にいたか

 

さてお立ち会い

ときは天正十年六月二日 (ぱしっ

 

しばし これらを講釈する前に

 

黒幕はいったい誰かについて

結論から申し上げる

 

 

黒幕は 信長 本人である

 

 

癖は本能時にあり しょの8

 

さてお立ち会い

ときは天正十年五月某日(ぱしっ※高座の釈台を張り扇で叩く

 

昨日の続きでごまいあす

信長が何をしようとしていたかとゆいますと

家康を始末する とゆう計画があったのです

 

なんで家康始末なのか(ぱしっ

 

この年の四月に信長は武田を滅ぼし 家康との同盟はもう必要が無くなった 次は西へ侵攻する信長は毛利を攻めるわけだがその先にある計画は 唐入り つまり大陸進出である これは戦勝後に与えるボーナスが国内にはなくなってしまうとゆうものでもあった

しかしそれてもう無謀ちゃいますの と思った社員も少なくはないはずである 誰も会長にようゆわんかっただけだ ここにただ一人ワンマン会長に(逆らうのではなくて)意見するまぢめ社員が居た 光秀である おそらく皆は思った 秀吉常務はイエスマンだが光秀常務ならゆうだろうと

光秀は悩んだ挙げ句会長室に行く しかし信長は逆に家康粛清計画を光秀に持ちかける 「君と秀吉君は余の二大腹心幹部だがね 信頼しとるんよ ほけど家康君は大陸侵攻には反対意見だで この際クビ切っちゃろと思うがに」 くりびつてんぎょした光秀は自分の意見を出せなくなってしまった 「そこでこんだ本能寺でお茶会をやると家康君を呼び出すで 君は秀吉君のヘルプの前にこっち来て(この計画を)やってちょー 内緒やけど この話は筒井君と細川君にも手伝わせるかんね」「しかし会長 私は毛利攻めとは別に四国の長宗我部との協力話を今進めているところでありましてそれどころでは」「おみゃーなにゆうとるだて 其の話はもーほかっといて 四国はちゃっと攻め取らにゃーでかんわ」「がーん」

 

かくして光秀の落胆を余所に 信長は本能寺に家康を呼び寄せる もちろん息子の信忠新社長も呼ばれていた 信長がなんで少人数で本能寺にいたかとゆうと家康を油断させるためであり 光秀が計画を代行するからである

 

ところが

 

以下次回

続編 癖は本能時にあり しょの9

 

さて お立ち会い

ときは 天正十年五月二十八日 (ぱしっ

 

舞台は連歌会の席にあい戻る

 

ときは今 雨が下しる 五月哉 (光秀)

 

とゆう発句は 

(とき)土岐氏である自分が (あめが下)天下を (しる)統べる 季節の五月になった

と読める謀反の句だとゆうのは のちの秀吉による惟任退治記の意図的すり替えであって

 

ときは今 雨が下なる 五月哉

 

とゆう単なる季節の句であったはずなのだ

 

しかも 歌会が五月であることで 六月の謀反の日とそぐわない点を ぎりぎりの二十八日にまで日にちすら改竄している

 

これは実際には歌会が二十四日ではないかとの説があり

当日の天気が 二十八日は晴れで 雨は二十四日だったとゆうことだ

この日であれば 光秀が土岐氏の苦境を愛宕山の雨の風情として詠んだだけとなる

 

しかし愛宕百韻は戦勝祈願の催しであり これは一見些細なことのようだが 神前に奉納もされているわけでいい加減な祈願ではないのだ

 

そこで次の句

水上まさる 庭の夏山

花落る 池のながれを せきとめて

 

これもこのように書き換えられた

水上まさる 庭のまつ山

花落つる 流れの末を せきとめて

 

最初の方が正しいとするのは 脇句は発句と同じ季を詠むとの連歌のルールによる

そしてわざわざ脇句と第三も書き換えられたのは 謀反共謀の詮議が及ばないようにとの配慮であるらしい しかしこれも

 

【挙句】国々は猶のどかなるとき (光秀嫡男光慶)

 

ときに始まり ときに終わる

まさに土岐一族の苦境から安寧への祈願である

 

光秀はここに謀反とゆうよりは長く続く乱世を終わらせたいとゆう想いがあったのだ が

 

以下次回

癖は本能時にあり しょの10

 

さて お立ち会い

ときは 天正十年五月末日 (ぱしっ

 

新社長の信忠は会長信長の命により家康に同行していたが 堺へ行く予定を変更して二十九日には上洛して妙覚寺に宿泊していた (クーデター勃発の知らせを知って信忠は二条御所に移り立てこもる)

 

謎1の そもそも信長が家康を暗殺するとゆうような 今なら誰もが「んなことあらすか」と思うことを 当時の現場の社員達が驚かなかったのか むしろ討ち入ったときですら自分たちがいったい誰と闘っていたかわかっていなかったかも知れないのだ 不用意にやれば他の社員や同盟国が動揺する また家康は社員ではなく同盟国なのだが

 

謎2の 光秀が信忠の件を知らなかった(見落としていた)のが 全く監視していなかったからだとすれば 用意周到な光秀にそげな迂闊なことがあり得るだろうか

光秀が信忠を見落とした理由は ぢつわ信長の情報漏洩対策である しかもこの計画は光秀だけが知っていたのだ この二人だけの密談はひょっとしてフロイスが盗み聞きしていたかも知れない フロイスの『日本史』にそれらしい記述がある 「これらの催し(お茶会や饗応)の準備について 信長はある密室で明智と語っていたが・・」 しかしそげな接待相談をなして密室でする必要があるのかとゆうことだ

 

謎3の 信長と信忠を討った光秀は迷わず安土に進軍する 二条御所よりさらに要塞である安土城に しかも集結しているはずの織田軍が籠城せず なぜ光秀の無血入城を許したのか

これももともとは信長が家康を油断させるための策略があった 信長自身が中国出陣のため(本人は行く気はない)出払い また光秀の出陣も中国方面ヘルプのための準備として饗応役を解任したとゆうカムフラージュがあったとゆうことだ つまり安土が手薄であることを光秀は知っていたのだ 誰から聞いたかは明らかである

 

謎4の 本能寺で家康を討つことは 直接三河を攻めて大きな犠牲を払うよりも 例えば家康がそこで急に別心したので返り討ちにしたとか言い訳ができるし そもそも安土で誰も謀反を実行することは無理だからこその本能寺ホテルなのだ

 

 

しかるに シナリオはすべて会長の信長自身が考えていたこと とゆうのが真の黒幕とゆう意味なのだ

「是非に及ばず」とゆう言葉は「おえりゃーせんで」とゆう諦めの言葉ではなく 上意の言葉 つまり乱丸の「謀反は明智の手の者らしい」との報告に 信長はすぐさま思い当たり「確認する必要はない(余は自らの策にはまった)」と答えたわけである

 

光秀は信長の策略を熟慮の上 自分の信長討ちにしてしまった 実行は簡単で早めに本能寺に着けば良かっただけである 光秀謀反の理由については諸説あまたあるが 実際の実行プロセスについての解説はほとんど無い 

ひとつだけ計画外であったのは 新社長信忠も既に京にいたとゆうことだ それは知らなかったのだ

 

※参考文献: 

「本能寺の変」は変だ!明智光秀の子孫による歴史操作授業 他

明智憲三郎 (著)

 

でわ どこで光秀は別心したのか

 

六月二日未明 光秀の携帯が ぴろん と鳴った

 

以下次回

続編 癖は本能時にあり しょの10の2

 

さて お立ち会い

ときはいよいよ 天正十年六月二日 (ぱしっ ぱしっ

この日の未明 光秀の携帯を鳴らしたのは

 

 

 帰蝶であった

 

 

帰蝶の生まれ年が1535年未年はわかっていたが

誕生日を推理した 11月9日である

 

なぜかとゆうと

この日であれば火王星の-つまり冥王星の未つまりゼロ王星だからだ^^

 

そしてこの日の誕生花は ランタナ(七変化華)である

ランタナの花言葉は「心変わり」「合意」「協力」

 

 

 

 

 

<きちょ         ◎ ⊂ ≡

 

      1582年6月2日      

 

♀<みっちーいる?

 

       あっ

       お方様

    既読 どうなさいましたか>♂

 

♀<あのね

 

           既読 はい>♂

 

♀<今日こっち来るよね

 

        はっ

        親方様の密命で

     既読 本能寺に参ります>♂

 

♀<いまね

  アタシ離縁されそうなの

 

       ええっ

    既読 それはまたどうして>♂

 

♀<だってアタシ

  子供できないでしょ

  それに

 

♀<あのシト

  生駒ばっかりかわいがるのよ

 

♀<あいつ世継ぎ産んでるから

  仕方ないけどさ

 

♀<だからみっちーに

  お願いがあるの

 

       な

       なんでございますか>♂

 

 

(インターネット接続がありません)

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続編 癖は本能時にあり しょの11

 

さて お立ち会い

ときはいよいよ 天正十年六月二日聖金曜日としましょう (ぱしっ

実際は木曜日ですが便宜上 受難日とゆことです

 

前回の最後のトコが気になりますか?

この次のオチに使うつもりがうっこり先に出してしまったので^^

 

予定を変更して新たなオチの前にもう一度 

ゼロ学をおさらいしておきましょう

 

例えば家康の生誕は

天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)

 

とゆうことで前にも書いたゼロ学データでは

火星のマイナスか月星のマイナスになるのだが

なぜ ぼくの親友故令洋先生は家康を木王星(卯)と見たのか

 

ところでこのプラスとかマイナスとかは 本来ゼロ学会では陽と陰とゆう

わかりやすいのでぼくもこの表記にしているが

このゆい方はゼロ学出身の細木数子によるものだ

細木は破門されていて ホンマはこのゆい方をすると令洋センセにおこらえる

 

干支でゆえば 子は+卯は- 午は+未は- であることだ

光秀(子)家康(卯)信長(午)帰蝶(未)

 

さて家康がもし木王星なら卯はゼロ王星になるが(信長と帰蝶もそうである)

木星のマイナスとは海王星のことで

ぼくと同じ星である 干支は違うのでぼくはゼロ王星ではない

 

そこで ぼくの性格を当てはめていただければ 知らんシトはなんでと思い 知ってるシトはなるほどと思う点があるはずだ

家康はゼロ王星であることで その反対の性格である金星の要素も併せ持っているとゆうところが違う

 

木星のマイナス海王星のポイントと軽茶(巳)

 

余裕と知性 (そやろか

大器晩成である (ほんまか^^

年長者にかわいがられる (これはある

家庭的で仲間を大切にする (これもある^^

責任感があり出しゃばらない (これは違う

優しく紳士的なフェミニスト (これはある^^

慎重なプロセスを経るが結果重視 (これもある

専務理事タイプで 最強のNO2 (これはあたり^^

 

つまり 石橋を わるまで待とう ほかっとけ である

 

光秀も同じ木星のこっちは子年のプラスだが ほぼ同じ

ただ海王星よりは融通が利かない

 

再々出てくる ゼロ王星 とは何か 細木数子でゆうなら霊合星

 

簡単にゆうと 生まれ年が自分のゼロ期なのである

ゼロの考え方は難しく 単に悪いものとゆうわけではない

ある意味で自分のエッセンスでもある

 

それぞれの星にゼロの干支がある

水星+ 水王星 子

  ー 氷王星 丑

木星+ 木王星 寅

  ー 海王星 卯 家康?

月星+ 月王星 辰

  ー 魚王星 巳 信玄

火星+ 火王星 午 信長

  ー 冥王星 未 帰蝶?

金星+ 金王星 申

  ー 小王星 酉

土星+ 土王星 戌

  ー 天王星 亥

光秀・木星子 秀吉・水星申 謙信・月星寅 らはゼロではない

 

ゼロは季節でゆうと 冬である

フツー冬に種を撒いても育たない

春に種を撒き 夏に花が咲いて 秋に実がなり収穫して 冬を迎える

 

この時の流れを如何に全うするかである

もちろん皆が良い時期に結婚したり 子供を産んだり 家を建てたり 会社を創業したりできるわけでもない

その時期にしなければならない事情もある

今日はこっちの方角に行ってはいけないとゆうこともない

水商売に水星が多いのは水は水星のゼロ要素だからである

木星のゼロ要素は植物でグリーンである

 

ゼロにはゼロの過ごし方がある 流れに逆らっては良くないだけなのだ

 

光秀は流れに逆らったのか

 

1562年(午年)6月(午月)21日(寅日)午前四時(寅の刻)

木星の子(ねずみ) 光秀にとって

決定年決定月ゼロ日ゼロ時刻そしてゼロ方位である

 

光秀の携帯を鳴らしたのが帰蝶であったのはともかく

読者諸氏には それをどう挙句にするのかお楽しみに

 

以下次回

ひとつだけ

ぼくの解釈を加えておくと

光秀は

ゼロの信長と ゼロの帰蝶に挟まれて ゼロの家康を救う

とゆう運気を作ったのではないか?

光秀が天海坊になったかどうかはロマンだが

家康が おそらく自分の血であり春日の子でもある家光に 光の字をつけたのも またロマンであろう

家康は同じ木星属として 光秀の意志を継いだのではないか

大陸進出をせず鎖国まですることによって日本の文化も大きく変わるのである

さらに追加すると

家康は光秀の計画を知っていた

伊賀越えに苦労した一件は実は全く逆の話で 信長の伊賀攻めのときに家康に救われた伊賀者が恩義を感じて 家康の脱出を全面協力したので楽勝だったとゆうことだ

安土城放火事件も家康の差し金である 実行犯は伊賀者だ

穴山梅雪の一件も裏がある 一揆に討たれたのではない

そしてもう一人事情を知っていた斎藤利三が口を割らなかったことが 上記の春日の一件に繋がる

本能寺以後の家康の行動は府に落ちない部分が多々あるが そう考えれば全て説明はつく

癖は本能時にあり しょの12

続編 三篇予告 

 

「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す

心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」

 

西暦1500年代のある夏のこと

或る場所でひとりの男が崖っぷちにいた

 

人生の旅の途中で 本当の道を踏み外してしまった彼が気がついたとき そこは暗く深い森の中であった

 

すべては復活祭の聖金曜日に始まる

 

 

見渡せば暗き森深く 道らしき道のひとつすらなく 何が起こったのかを理解できない彼は暗闇の中を進み 途方に暮れていた あるところで時間が止まる 急に目の前が開けたのだ

なだらかな丘の麓に彼はたたずんでいて 遠くに見える山の稜線の向こうに朝焼けの光が見えた

「この光が導いてくれるなら 前に進もう」

 

そこへ三匹の獣が続けざまに現れた

豹 獅子 狼

迫りくる猛獣に絶体絶命かと思ったとき さらにひとりの男が現れる

 

その男は言う

「この荒れ地を抜け出すには別の道を行く方が良い 案内しよう 但しそこは死後の世界なのだが」

「ぜひ連れていってください 例えそれが地獄でも」

「覚悟はあるのか 地獄を抜けられたら その先には煉獄があり そしてその上には」

「その上とは?」

「それは天国だ もしそこまで行きたければ 私はそこへは行けないので 別の人物に案内をお願いしよう 実は私はその女性に頼まれてここへ来たのだ」

「女性?」

「貴君のよく知っている人だ」

「それはまさか?」

 

 

 

以下 続々編に続く

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