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Caravaggio

●バロック その予習と復習しょの1

カラヴァッジョとゆうとまずは

ちょうど1600年(東インド会社設立の年)に画かれた2枚の絵
『聖マタイの召命』と『聖マタイの殉教』
教会公式デビュー作 この2つには色んな謎がある

その前にまずこれでも聴きながら 色々考えてみよう

 

ニコラウス・アーノンクール指揮の「マタイ受難曲」

>アーノンクールはフランス革命以前と以降で音楽の享受方法がガラリと変わったという 何が変わったかというと「音による言語」というものが失われてしまったのである

●バロック その予習と復習 カラヴァッジョ しょの2

前出のマタイ三部作(1600)の前に
「果物籠」(1596年頃)

一見なんちゅことない静物画だが ぢつわこれは「美術史上初めての独立した静物画」である

 

それまでの古典からルネサンスやマニエリスムなどの絵画は いわゆる「宗教画」として様々な寓意を含むものであり 宗教芸術はリアリズムであってもイコノロジーや客観的な世界観/宇宙観が必要であった こうゆうところはなかなか日本人には馴染まない つまり印象派とかがスキなのはそこに西洋の哲学的理念がないからだ 古代ギリシャの自然哲学による自然模倣にしても キリスト教中心の中世美術で神秘性や非現実性が聖体の象徴として強調されているのも その奥深い背景をぼくらは知らんのだ

 

そこでこの「果物籠」をよく見てみると

 

籠がテーブルからはみ出ている
リンゴの所々に虫食い穴がある
右手の方の葉は枯れ始めている

 

とゆうのは「果物」とはゆわばエデンの園からの罪の象徴だったり 快楽の寓意だったりするのだが それがこの絵では「退廃の始まり=はかなさ」を示している そらもー神さんの絵ばっかり見ていた時代になんじゃこりゃ?ちゅことなったですよ リアリズムの技巧が発達した一方でその裏側の不確実な感覚性が浮き彫りにされる それはこの頃に始まる世界や宇宙の近代的観念と関係が有る
 

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●バロック その予習と復習 カラヴァッジョ しょの3

前項の果物が描かれている絵をもうシトツ「エマオの晩餐」(1601)


こちらは宗教画

この絵は邸宅用に画かれたもので すぐ前で観ることを想定して人物はほぼ等身大であり 観者が画中の食卓に臨席できるようなヴィジョン(幻視)である これは観者が画中の幻視者とゆうフィルターを通して聖なる存在を見るとゆう一種のメタ表現 難しい

 

両端の二人の使徒は巡礼者 杖はないが胸にある貝殻がそれを表す この二人が両手を大きく拡げたり椅子から立ち上がろうとしている つまりくりびつてんぎょしているのは何故かとゆうと
真ん中はもちろんキリスト 髭がないのは若い頃ではなくて復活後の姿(異なりたる姿:マタイ伝16:12)であって 最初それと気づかずに晩餐をともにしたが パンを裂いたときにわかった瞬間を捉えている

 

「えー? あんたキリストさんやったんかい」(弟子はこうはゆわんが

 

もうシトリ(左後ろ)の人物は宿屋の主人またはキリストに気づかない罪人 これは副次的人物を入れて逆に教義を伝えるやり方で 当時の反宗教改革の宗教画の特徴でもある
※反宗教改革(対抗宗教改革)と宗教改革の違いについては自習のこと

 

ここでも果物籠はテーブルからはみ出ていて(突出効果)影は魚の形(キリストの象徴)である

ところで 復活は春に起きたはずなのに秋の果物があるではないかとか マー茶々入れするシトがあるですよ ここではキリストの前の祝福されたパンから手前の方の虫食いリンゴのような朽ちる食べ物が 奥から手前への流れの寓意であることだ

「エマオの晩餐」はそれ以前にティツィアーノなどいくつかあるが 彼ほどリアルなものではなかった

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●バロック その予習と復習 カラヴァッジョ しょの4

果物はまだある これは初期の作品「病めるバッコス」(1593-4?)

 

バッコス(バッカス/バックスともゆう)はディオニュソスのことであって「若いゼウス」の意味のギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神 ローマ神話ではワインの神
アトリビュートは葡萄と蔦 バッコスを讃える(酒宴の)踊りはバッカナーレとしてクラシック音楽にもたくさんある

 

パトロンがついて売れっ子になるまで彼はビンボーであったのでモデルを雇う金はなく自分モデルにしたゆわば自画像
 

後の絵画にはいつも自分自身が何らかの形で描かれている(後述)

 

果物は少しはみ出ているが朽ちてはおらず この時点ではまだ現実主義的写実

 

1597年の同じテーマ「バッコス」では果物は朽ちている カラヴァッジョのバッコスは豊饒とゆうよりは衰退・破壊・狂気である
 

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●インタミッション

「ラクタ君 今回は17世紀の話だが」
「へいへい そう来るオモテ調べときました」
「1600年とゆえば?」
「関ヶ原の戦いです」
「うむ セクヶ腹のたたか いや そやのーてやねチミ」
「カラヴァッジョは1571-1610年ですが 1600年の時点で29歳です」
「ほんで その頃のゲージツ家・哲学者とゆえば?」
「画家では グレコ59歳 (ヤン)ブリューゲル※(ピーテル)ブリューゲルの息子32歳 (グイド)レーニ25歳 ルーベンス23歳 以下 ラ・トゥール7歳 プーサン6歳 ベルニーニ2歳 (ヴァン)ダイク1歳 ベラスケス1歳
 哲学者・その他では ベーコン39歳 シェイクスピア36歳 ガリレオ36歳 以下 ホッブズ12歳 デカルト4歳 バルザック3歳
 音楽家はちょっと有名どころがないですが イタリアではジョヴァンニ・パレストリーナが1594年没
 同じく存命なら ボッシュ150歳 レオナルド(ダ・ヴィンチ)149歳 コロンブス149歳 マキャヴェッリ131歳 クラナッハ128歳 ミケランジェロ125歳 ジョルジョーネ123歳 ラファエロ117歳 ティツィアーノ112?歳 ポントルモ106歳 パルミジャニーノ97歳 ブロンズィーノ97歳 ヴァザーリ89歳 ティントレット82歳 ブリューゲル74歳
 一方でまだ生まれていないのが レンブラント(1606) ミルトン(1608) パスカル(1623) フェルメール(1632) スピノザ(1632) ロック(1632) ニュートン(1642) ライプニッツ(1646) バッハ(1685) ヘンデル(1685) とゆうところですね」
「同じ頃のイタリヤに限ればグイド・レーニくらいか 影響下のベルニーニはまだ子供だし ルーベンスはベルギー レンブラントはオランダ ベラスケスはスペイン あとはイギリスとかフランスだから どれも親交はなかったな」
「いちおティツィアーノ(1576年没)の孫弟子です」
「あとイタリアではレオナルド以外にジョルジョーネとかの影響はある」
「バロックとゆうとレンブラント ルーベンス ベラスケス そしてたぶん一番はフェルメールでしょ カラヴァッジョが日本ではどうもあまり知られていないのは何故でスカー」
「それはもっとルネサンスから特にマニエリスムの経緯を勉強せんならんのやが ロベルト・ロンギの芸術論叢ⅠⅡとか2冊でピンフロのこんだのボックス買える値段やで 図書館にもないしやな どないすんのじゃ われ」
「はいはい それで?」
「マー たんに素行が悪かったからとちゃうけ」
「ハカセは?」
「・・;

●バロックの予習と復習・カラヴァッジョ しょの5

絵画にはフツー即興とゆうのは少ないが 音楽における即興つまりインプロヴィゼーションは実験音楽や前衛音楽とゆうわけではなく そもそも音楽は即興的なものであったとゆうことだ バロックには既に即興的な対位法があり 当時は装飾技法と思われていた バッハもヘンデルも譜面はたんに骨組みであった これが以降にはだんだんと正式な演奏方法になってゆく 20世紀になってインプロヴィゼーションが重要になったのはまずジャズの領域で いわゆるそのアドリブもパターン化してきたところにフリージャズが生まれた ロックではおサイケアングラの頃からプログレにいたるが それ以前にブルースは即興であった 特にフリー・インプロヴィゼーションは非イディオマチックなもので全き自在性を前提にしている

 

そこで 音楽を描くとはどうゆうことか なぜ聴覚を視覚化するのか ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョが描いた音楽のモチーフはいくつかある
「若者たちの演奏」「エジプト逃避途上の休息」「リュートを弾く人」(※二枚ある)「勝利のアモル」
楽曲が同定されているものもある ただしこれらに描かれている楽譜には歌詞がない 何故か 唯一書かれているのは ”Voi sapete ch” 意味は後述するが「なんだかご存じですか」とも読めるので つまり曲当てクイズみたいなモノである

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●バロック その予習と復習 カラヴァッジョ しょの6

20世紀初頭にカラヴァッジョを再発見させたロベルト・ロンギ(1890 - 1970)とゆうイタリヤの美術史家・筋金入りのモダニストが居る

トリノ大学文学部で美術史を専攻し 気鋭の美術史家トエスカの指導の下で ロンギは世の中に忘れられていた「カラヴァッジョ」をテーマに卒論を書いた まだ美術史とゆう学問はさほど育っていなかったが かけ出し者の彼は大学院を出ると当時のルネサンス美術史大御所ベレンソンや哲学者/美学者のカリスマ的存在であったクローチェらをいきなり大批判する まだバロックの再発見もない時代に フィレンツェの観念的な「素描」や ヴェネツィアの物質的な「彩色」でもない 新しい絵画の指標として「ルミニスム」(完璧なリアリティにおける視覚の具現化)を掲げ 芸術の革命を見たのである それは芸術の巨匠や傑作よりもプチメートルに目を向けるボードレール的批評精神であり 彼を動かしていたのはフォルマリズムの論理とアンチアカデミズムの出発であった アナクロニズムとも称されたが 彼は歴史をあるがままの過去ではなく歴史家によって批判的に再構成されるべきテクストと捉えた さらにリアリズムの追求は抽象主義を認めなかった点で 彼の愛弟子である(現代のカラヴァッジョともゆうべき)ピエル・パオロ・パゾリーニにも顕著だ ボローニャ大学でのパゾリーニの論文はロンギの指導の下で書かれた「現代芸術」である ロンギの映画好きは「フォトグラム」の創始者でもあったのだ かくしてカラヴァッジェスキは増殖した

●バロック その予習と復習 カラヴァッジョ しょの7

 

問題のマタイ論叢^^
『聖マタイの召命』『聖マタイの殉教』(1600)
そして『キリストの捕縛』(1601)だ

カラヴァッジェスキの独自性は 身振り特に手の緊張の効果に集中したことにあった 絵画における身振りはルネサンス以降 表現の重要な要素であった ただカラヴァッジョ以前のものに比べてより自然に作品の主題に相応しく調整されている この表現的身振りの解釈からブツギになったのがマタイ論争である

 

まず『聖マタイの召命』では「私について来なさい」とゆう右端のキリストが指さしている徴税人レヴィ(のちのマタイ)は左の人物のうちどれかとゆうもので 当初は左から三番目の髭のおっさんだと思われてきた それが20世紀の終わりにプラ-ターとゆう研究家がそれまでのベッローリの定説に異論を唱え マタイは左端のうつむく若者の方であるとゆいだして クレッチマーや碩学レットゲンらと論争になった 両者のゆいぶんは動画にある

 

『聖マタイの殉教』の方はもっとややこしい そもそもマタイはミサの最中に王の刺客によって殺害されたのだが ここでは褌の洗礼志願者?が殺害しようとしているよにも見える さらに上の天使が差し出す棕櫚(殉教のシンボル)は届いていない そして逃げ惑う周りのシトびとの中に左後ろの方に見えるおっさんが本当の刺客ではないか?とゆうもの しかもどうやらこれはカラヴァッジョの自画像のようであり これがいったい何を意味しているかが謎なのだ

 

『キリストの捕縛』にいたっては まさにキリストが捕まろうとしている状況で 困惑したイエスにユダがキスしようとしていて その左のヨハネは逃げだそうとしている とマーそれまでの宗教画にはなかったなんとも奇妙な構図だ

バロックの特質は構図や趣向とゆうよりは
「幻視」(イリュージョン)によって現前の場所を構築することなのである

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●バロック その予習と復習 カラヴァッジョ しょの8

前項『聖マタイの殉教』で後ろの人物が自画像ではないかとゆうことであったが カラヴァッジョの諸作品には自画像あるいはそれとおぼしきものがいくつかある 画家は自画像をよく描くがその心理は何だろう

 

『トカゲに噛まれた少年』(1593-1594)
『病めるバッカス』(1593)※既出
『果物籠を持つ少年』(1593-1594)
『メドゥーサの首』(1598-1599)
『聖マタイの殉教』(1600)※既出
『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609-1610)

 

『ナルキッソス』(1598-1599)

 

カラヴァッジョは1610年に37歳で死ぬ 奇しくも同じ37歳で死んだのがラファエロ(1520年)そしてパルミジャニーノ(1540年)である パルミジャニーノの『凸面鏡の自画像』と『メドゥーサの首』を比較してみると 画家が凸面鏡を用いて自画像を描くのは「平面鏡を先生にすべきである」とゆうレオナルド(ダ・ヴィンチ)の教えに意識的に背いた挑戦的な試みであった 凸面鏡特有のデフォルメされた映像と普通の平面鏡の映像とを組み合わせて鏡を巡る虚実の二元論を解体したとゆうことだ メドゥーサの切り取られた首は鏡のように磨かれたペルセウスの盾に映る表象である その目はどこを見ているか
カラヴァッジョの絵は私たちを見ている またはあるものを見ている 見ることの貪欲さは見られる事への願望と対になっている 見る事への執着 見る事への懐疑 見ることの拒否 そしてこれらを同時に体現しているのが他でもない『ナルキッソス』なのだ でわナルキッソスはいったい何を見ているのか

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●バロック その予習と復習 カラヴァッジョ しょの9

カラヴァッジョはその生涯において粗暴のシトであった

 

1571年ミラノに生まれ ティツィアーノの弟子だった師匠のもとで10代から絵の修行をする ローマ風のマニエリスムではなくドイツ自然主義絵画に親しむ 20代にはケンカ沙汰でミラノから無一文でローマに出る そこでチェーザリの工房に入り初期作品をものすことにより徐々に人気が出て 1594年頃に美術鑑定家デルモンテに見いだされ ようやく画家として自立する そこで初めて描いた宗教画が『懺悔するマグダラのマリア』(1594) 以下1600年の例のマタイで大評判となる

 

しかし作品の依頼は暴力的な表現を伴うものが多くなった 実生活も放埒でとうとう殺人まで犯してローマから逃亡し ナポリやマルタを転々と彷徨う その間に描いた『キリストの埋葬』『ロレートの聖母』『聖ヒエロニムス』『蛇の聖母』『慈悲の七つの行い』など 彼の絵はあちこちで評価されるも 相変わらず悪行を繰り返し投獄もされる おかげで皆に付け狙われ襲撃も受けて瀕死の重傷を負うことになる そしていよいよ改心するのか『ゴリアテの首を持つダビデ』で自分の自画像を生首として表現? 恩赦を受けるためにローマへ帰ろうとする途中で 熱病にて没した

 

首チョンパの絵とゆうのは グイド・レーニやティツィアーノをはじめとして ゴリアテやサロメとかいっぱいある ここではこのダビデの方のモデルは愛人であり関係の悪化を表現したとゆう説もある フロイト的分析では斬首/去勢恐怖として同性愛説もある ナルシとマゾ傾向としての自己断罪の解釈もある これらは全て(聖性の)タナトス つまり死の概念ではないかと思われる

 

では彼の救いはどこにあったのか カラヴァッジョ晩年の作品は『聖ウルスラの殉教』(1610)などだが 彼が死の直前まで携行していた絵がこれだ

『法悦のマグダラのマリア』のりめたんげれ

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●バロックの予習と復習・カラヴァッジョ サプリメント1

名古屋のカラヴァッジョ展では閉館後に 演奏会が展示室のカラヴァッジョ作「リュート弾き」の前で行われ 予定のクラシック曲以外に 件の絵に同定されたアルカデルトのマドリガルを特別に演ったそうである

「リュートを弾く人」の絵はヴィンチェンツィオ・ジュスティアーニ公爵のために画かれたものと デル・モンテ枢機卿のために画かれたものとふたつある ポイントは絵に描かれている楽譜で 文字列が曲当てクイズと前に書いたのは推量だが 本来はマドリガードの歌詞である 詩は男性から女性への献身的な しかし報われない愛の歌

 

さてリュートを弾くこの若者は至極両性具有的に描かれていて そのモデルは誰かとゆうと 当時デルモンテ邸に滞在していたスペイン人カストラート(変声期の前に去勢手術を受けた男性歌手)であるペドロ・モントーヤとゆわれている
カラヴァッジョとデルモンテにモーホー傾向があったことはともかく 少なくともデルモンテは自分でも演奏をする当時としては文化人で その関心は芸術全般から薬学や錬金術に及んだ カラヴァッジョ自身は絵画の注文主の要望に応えただけで積極的に音楽をやっていたわけではない しかし当時は音楽の在り方が変化の過渡期であり デルモンテが精通していた音楽論(フィレンツェのカメラータ)は当時としては前衛で 音画と呼ばれる「目の手法」は演奏家自身より聴き手の感情に訴えるものであった カラヴァッジョはその様子を描いたとゆうことだ

●バロックの予習と復習・カラヴァッジョ サプリメント2

チンクエチェント(16世紀)におけるマニエリスムは単なるパッチワークではなかった それは洗練の極致である その独自の美的理念はヴァザーリによれば ・レーゴラ(規範)またはカノン ・秩序 ・比例 ・ディゼーニョ(自然模倣技術) ・マニエラ(手法) この5つは完成されていた 更にこれに加えてグラツィア(優美)とディヴィーノ(神々しさ)の2つがもっと高次なプラトン的美であるとヴァルキやツッカロは考えた レオナルドの解剖学的な物差しとは違ってミケランジェロのゆう「眼の中のコンパス」とは ツッカロのゆう「内なるデッサン(ディゼーニョ・インテルノ)」と同じであって プラトン的優美を越えたアリストテレス的美(新プラトン主義)であった

 

ところがこれを17世紀になってベッローリらが否定する 非合理主義であり観念論だからだ マニエリスムの特徴である技巧的な表現や知的な蘊蓄を伴った寓意主義は排されてしまう それよりもキリスト教美術を伝統と教義にのっとった適正な表現に訂正すること つまり もっとわかりやすぅせんかい ちゅことで バロックは再び社会と現実へと芸術を復帰させたのであった これがカラバッジョの出た16世紀(1500年代)末の(ルネサンスやマニエリスムが繁栄した地方フィレンツェやミラノ以外の)トスカナやヴェネチアでのことなのである

カラヴァッジョ亡き後に ベルニーニがミケランジェロをディヴィーノとして賞賛しながらも 新しいダヴィデを世に問い マグダラのマリアや聖女テレサの法悦や福女ルドヴィカ・アルベルトーニなどをもってして官能の極点に達しめたのは実に素晴らしいことだ
 

とゆうわけでマニエリストのぼくはバロックを嫌うわけではないが17世紀が16世紀を全力で否定したことでそれらが20世紀まで闇に眠ってしまったことが解せん

しかし

​マグダラのマリアはぼくの目の前に居た

 

Voi sapete ch'io v'amo

あなたは私が本当にあなたを愛していることを知っている

>人は自分の死を予知できず、人生を尽きせぬ泉だと思う。 だが、物事はすべて数回起こるか起こらないかだ。 自分の人生を左右したと思えるほど大切な子供の頃の思い出も、 あと何回心に思い浮かべるか?せいぜい4,5回思い出すくらいだ。 あと何回満月を眺めるか?せいぜい20回だろう。 だが、人は無限の機会があると思い込んでいる。(ポウル・ボウルズ)

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