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​続・テキストアートの真理 1

​2016

この年 モロッコのタンジールにWバロウズが「裸のランチ」を執筆したエルムニリアホテルを訪ねた

以前から反省しているところの カントは純粋理性批判で(数学の)あらゆる公理と定理は真理であると宣言し 既知の事実をアプリオリと見なして経験によってそれは確認されないと述べた それは精神にはそもそも空間と時間の形相があるからその形相に基づく直観が経験を見ているからであるとゆうものであった しかしこれはユークリッド幾何学の範疇であって今や世界はそうではない 平行線公理は崩壊した 非数学的矛盾と逆理 ラッセルやフレーゲをはじめホワイトヘッドやカントールもポアンカレやヒルベルトもゲーデルやスコーレムも 「純粋は不純である」とゆう不確実性の時代に向かったように ぼくも今後は言葉と論理をいぢくりまわすのはやめて 本来の記号論理学による「意味と関係」について勉強し直すことにしよう ただしホンマに直観主義でヨイのかとゆう問題は未解決である モデルが居ない画家はどうするのか?

 

つまりテキスト解釈とヴィジュワル解釈がいっしょに進むグラヒックエデチングである アレゴリーが感覚-経験の世界から遠ざかり思推に傾けば つまりメタファーは「見る」が アレゴリーは「考える」のであって それは幾何学的抽象体の印象を醸し出すために 精微なシンボリズムと擬人化を駆使しつつ高度に装飾的なのである
 

ギリシャローマの修辞学に於いては 意味論的二重性を曖昧模糊としたクレアラシルであって 隠喩提喩換喩などの詞姿とを明確に区別せず構図の観念をアレゴリーに結びつけた 一方 解釈学者の方からは意味論的障壁を乗り越えなければならないので 与えられたテケストの下ネタであるところのヒュポノイアをあぶり出さねばならない 勃てば歩めの下心 これがノエシスとゆうものである
 

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