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茶樂の行方

いきの構造

茶樂の行方

茶樂の行方


さて 「粋」は上方では「スイ」と読むので 江戸っ子の「いき」とは若干ニュアンスは違う それを検証するにはまたある人物に会わねばならない 時代は明治である

茶樂 しょの1

明治11年(1878年)のこと 東京開成学校が東京医学校と統合されて出来たばかりの(旧)東京大学にひとりのアメリカ人講師がやって来た アーネスト・フェノロサ(当時25歳)とゆう これは文明開化による欧米の勉強を推進するためであった もともとこのシトはハーバード大で哲学や政治経済を専攻していた 彼の講義を受けた者には 嘉納治五郎 井上哲次郎 高田早苗 坪内逍遥 清沢満之らがいる このとき通訳の役目をさせられたのがまだ東大生であった岡倉天心(本名 岡倉覚三)である フェノロサは美術が専門ではないが関心はあった そこで助手となった天心(15歳)が

「ハカセ さっそくですがタイトルから見てこれは前回の続きですかね 茶楽が江戸時代から現在に戻る途中で明治時代に寄り道したとか」
「あのねラクタ君 いやしかしそーゆーオチも面白いかもしれんなー」
「オモテますね 毎度のことですし 年末進行の辻褄合わせちゃいますの バック2ザ冬ちゃうとか 茶楽呆助はシャーロックだったとか」
「あのねラクタ君 いやしかしそーゆーオチも面白いかもしれんなー」
「発作的にオン書きしているのは良いですけど ある程度の構想はあるんでしょ ハカセの文体が天心と共通項が多いとゆう思いつきとか」
「あのねラクタ君 いやしかしそーゆーオチも面白いかもしれんなー」
「はいはい ネタに困っているのはわかりましたから 早よ続きをやんなさい 先週も図書館本延滞しとったでしょう おこらえますよ
「資料がまだ全部揃ってないし読んでないし とりまこれでお茶を


・しょの2 来歴

>岡倉 天心(おかくら てんしん、1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。
何でこのシトが出てくるかとゆうと 日本美術史上の重要人物だからである さらにお誕生日は旧暦だがぼくと一日違いでもうすぐだ しかも海王星と同じ星である
名前は聞いたことあるけどどんなシトとゆうシトには
・東京芸大の前身 東京美術学校を創設 実質初代校長
・現代の文化財保護法の礎を作った
・現代日本画壇の双璧のヒトツ 日本美術院の創始
・世界的に認められた初めての東洋美術思想家
・東大文学部1期生
そもそも天心の親は福井藩の武家で 藩の商業化のため横浜に転出して 藩が出資した石川屋(現・横浜開港記念会館)の貿易商となる 天心が16で結婚した妻 基子は大岡忠相の末裔 大岡は越前守だが福井出身ではない ぼくが師事した福井の小笠原流師匠の診療所ビルは大岡ビルとゆう 大岡忠相のご子孫が家主なのである 縁はたくさんあって福井市内には天心記念像もある そして北茨城には「天心記念五浦美術館」があり 六角堂に取材に行きたいところだが今回は断念する 天心は横浜生まれで 漢籍を学んだが居留地で英語も学んだのでぺらぺらとなった それで フェネロサとの出会いがあり 助手として美術品収集を手伝ったわけである

「ハカセ 今回は補講でしたがまだ考察が不十分では」
「あのね 読む本どんどん増えてめんどくちくなった」
「隠れ読者もいらっさいますので宜しくお願いします」
「小ネタでホイは単なる覚え書きのパピエコレやから」
「あンたは読者のことなど考えてないとゆうんでスカ」
「わしは通信教育で空手を習って ちゃうわ 印哲な」
「そげなネタをいまどき覚えているシトは居ませんよ」
「若桑センセもいないことやしあとは独学しかないな」
「東洋大の印哲通信講座も今年から無くなったそうで」
「さてルネサンスからバロックに到る美術史とはやな」
「日本では別に知らんでも良いけど西洋では常識です」
「信長秀吉家康の順番くらい誰でも知ってるような事」
「ミケランジェロとダビンチくらいなら知ってますが」
「ダビンチじゃなくてレオナルドと名前でゆいなさい」
「ベンツよりメルセデスとゆうほうがいいみたいな?」
「織田豊臣徳川だけではその中の誰かわからんちゅ事」
「成る程それはわかりやすい 年代までは知らんけど」
「ルネサンスの始まりは曖昧だが終わったのは1520年」
「つまりラファエロの死んだ年ですね レオナルドは」
「その前年ぢゃ ミケランジェロはもうちょい長生き」
「ミケランジェロはレオナルドより20歳若いですから」
「マニエリスムは1585年頃までバロックは1715年まで」
「そのあとは啓蒙主義やロココが芸術様式分類ですね」
「様式論は基本だが視覚形式つまりものの見方の変遷」
「それが時代によって違うとゆう点が美術史の面白さ」
「美術史は各学問の総合だけでなくイメージの研究だ」
「それがイコノロジー=図像解釈学なのでしょうか?」
「その前の段階の図像学=イコノグラフィーもあるな」
「言葉でゆえやんような意味深いものを勉強するのね」
「単にスキ嫌いとか理論はどうでも良いとかでわない」
「言葉遊びはスキでしょそれ以上にビジュワルの拘り」
「アレゴリーの深読み遊びは形而*下ネタに止めよう」
「あのー また密林から5冊ほど届いていますけど?」
「蟻婆とか平平とか世の中どないなってゆくんかのー」


・しょの3 来歴2

天心が東大で通訳兼助手を務めることになったアーネスト・フェノロサはハーバード大出身だがわずかな間ボストン美術館付属美術学校で絵を習った
そのとき感銘を受けたのが 同郷でパリで活躍中のジェームズ・マクニール・ホイッスラーの「金屏風」とゆう油絵 これが後にフェノロサの日本古美術収集に繋がった そしてホイッスラーがマンネリズムに陥った油絵に新境地を日本の浮世絵に求めていたことを知る ジャポニズムである
フェノロサは狩野派絵画に心酔し 日本の美術行政や文化財保護にも深く関わることになった なかでも彼の功績で特筆は 自分が審査官をした内国絵画共進会で狩野芳崖を見いだしたことである 芳崖は洋画の技法を取り入れていて狩野の保守派からは認められていなかったが 寧ろそこにある才能を見抜いたのだ フェノロサは天心を連れて芳崖に面会する 当初芳崖は毛唐に日本画がわかるかと取り合わなかったものの 結局はその鑑識眼を認め 天心にも協力して美術学校設立に奔走することになる しかし開校寸前に61歳で死去した
加納芳崖の有名な作品に『慈母観音』がある
このモデルはぢつわ天心と重要な関わり合いを持つある女性であった


「ハカセ 今回はマエフリが長くていまだに本編が始まらんのれすけろも」
「あのねラクタ君 わしが毎回そげな安直な事をすると思っているのかね」
「オモテますよ このポストモダン焼きもぢつわ何かの作為ではないかと」
「あのねラクタ君 テネットもメメントも時間を逆手にとったようにやね」
「ほほう てこた年末進行の辻褄合わせはすでに頭の中にあるわけですか」
「あのねラクタ君 ナンモ考えてないとゆうことを考えているわけだしね」
「いいや このままでは語り部は誰かとゆうことがポイントになるのでわ」
「あのねラクタ君 視点を変えてみるとゆうことも面白いと思うんだよね」
「はいはい ぢつわネタに困っているとゆうことがバレただけぢゃないの」
「あのねラクタ君 この際わしが軽茶であろうと茶楽であろうと関係無い
        ん

    だ

            が

・しょの4 来歴3

明治9年 明治政府はイタリアから画家を招いて工部美術学校を開設し 日本最初の西洋美術教育を始めたが充分ではなく 明治16年に閉鎖する これは国粋的な日本主義の台頭を遠因に 明治11年に東大教授として赴任したアーネスト・フェノロサの影響である
そのフェノロサが日本に来て古美術品を買いあさる一方で 最初に肩入れしたのは高橋由一であった 高橋は本格的な油絵の技法を習得し日本で最初の洋画家とゆわれる 代表作は『鮭』 もとは狩野派
フェノロサは 例えば「北斎はただの職人であり浮世絵はゆわば社会現象に過ぎない低級ジャンル」などと批判したにもかかわらず (ホイッスラーの例も考えて)高橋への関心を失い 狩野派などの日本の伝統美術へ傾倒する これは天心の入れ知恵であると誤解した一派があった 先の工部美術学校出身である浅井忠や小山正太郎らの西洋画団体「明治美術会」である 彼等は文部官僚をも巻き込んで天心を攻撃した
天心も第三回内国勧業博覧会(明治23年)の論文で 西洋画の発展は意匠と技術であって欠点は学識と品性の無さであると酷評したため 西洋画団体とは大きな軋轢があった もっとも 天心はやみくもに西洋画を批判したのではなく まだ(洋画の)教育が充分ではないと考えたからだ
その先見の明は 後に第四回の内国勧業博覧会(明治27年)に出品された黒田清輝(天心より四歳下)の『朝妝』(1893)が公式展覧会初のヌード絵で芸術か猥褻かとゆう賛否を退け 天心がこれを評価して展示にふみきったことでもわかる 他にも横山大観(東京美術学校1期生)や下村観山(2期生)や菱田春草(4期生)が育っていた
この天心が美術学校で全権を握っていた裏には強力なパトロンが居た それが美術行政の
頂点にいた男爵 九鬼隆一である
そしてその妻が 狩野芳崖の慈母観音のモデルにもなり 天心とのスキャンダルで知られる 波津子(初子)なのだ


「ハカセ 頭痛は治りましたか」
「まだ少しある 今まで頭痛が続くことはなかったんで 脳MRIも撮ったんだが 味噌もクソも異常はなかった 副鼻腔炎でもない ところがその時血管年齢を測ったら左右で50も血圧が違うとゆうので 昨日専門医にエコーかけてもろたわけ マー細くはなっているが動脈瘤とかでは無いみたいで 破れる系では無い 薬飲むとか カテーテルとかでもなさそう とゆうことで保護観察処分なっただよ 最近は持病のシャクも出ないしな」
「ハカセ 頭痛のタネはなんで」
「年末進行は毎度のことだが 今年は取材に行けなかったからな 映画撮影も中断してるし 全部脳内で再生せんならんやろ そのストレスは溜まってるんよ マ頭痛のネタ いやタネは結局オチを思いつかないからでは無いか あとはおまいがテキトーにやっときなさい」
「・・・

・しょの5 来歴4

天心は(フツーより2年早く)明治8年に12歳で東京開成学校(明治10年東京大学に改編)に入ったのだが フェノロサの助手になったのは2年の時である 卒業は明治13年
ちょうどフェノロサが来日した頃(明治11年) 天心の父勘右衛門は横浜の商館を閉じた後東京蠣殻町鎧橋のほとりで旅館を始めた 或る日東大の寄宿舎から戻った天心は手伝いの女でも養女でもないひとりの娘が家族に加わったことを知る 実父が死んで身寄りもなくなった大岡基子12歳であった でマーふたりはなさぬ仲になるのですなこりが それを知った父勘右衛門は世間体のため祝言を挙げさせる 天心15歳の時である
天心は最初は外交官を目指していたので国家論について卒論200枚を書いたが 友人達と卒業の前祝いに遊郭に繰り出し朝帰りしたことに基子は激怒 その論文を全部破って燃やしてしまった 仕方がないので二週間ほどで改めて美術論を書き上げ提出したが 成績はビリから二番であった(卒業生8人中) このことで成績順に割り振られた職場が 人気のない文部省音楽取調掛である さらにここでの上司(伊沢修二)とそりがあわず 天心は恩師の浜尾新に相談したところ ある人物を紹介される それが九鬼隆一であった
もしも伊沢に気に入られていたら天心は音楽教育に進み 初子と出会うことはなかったかも知れない

>九鬼 隆一(くき りゅういち、嘉永5年8月7日(1852年9月12日)? - 昭和6年(1931年)8月18日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。旧綾部藩士。旧姓星崎。男爵。号は成海。

摂津の出身で 福沢諭吉に呼ばれて慶應義塾に学ぶ 文部省に出仕 若くして文部少輔(現在の事務次官)にまで栄進した


「ハカセ ここまでのマエフリは史実と考えてよろしいでしょうか」
「せやな 記述によって実年齢がややこしい部分もあったんだがな」
「そろそろ登場人物も揃ってきたしやっと本編が始まるでしょうか」
「初子がまだでしょ しかし今回の主人公は天心でもないんだがな」
「それはよくわからん展開かも 日常的な話じゃないんでしょうか」
「あのねラクタ君 一応はメタフィクションの予定だったんだがな 少し変わってきた事情があんのよ それは他人の日常は自分にとっては非日常であるとゆうこと 日常に満足しているなら非日常は要らない 自分にとっての非日常であるところの他人の日常が自分の日常より面白そうかどうか なんである アイデアル しかしいったいそんな話が面白いと思うかね」
「・・・



・しょの6 来歴5

天心とフェノロサが文部省の委託を受けて亜米利加に向かったのは明治19年である さらに欧羅巴をも視察 目的は東京美術学校設立(明治22年)のためであった 欧羅巴では日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て 天心は日本画推進の意をさらに強くする 再び亜米利加に戻るのが翌20年のこと
天心はワシントンの日本領事館に九鬼隆一を訪ねる そこには妻の初子も居た
初子と最初に知り合ったのは 文部省事務局長の浜尾から九鬼を紹介された直後であった そのとき九鬼は29歳 天心は18歳 初子は20歳 天心の長男が生まれた明治14年のことである

>九鬼波津子(くき はつこ、万延元年10月1日(1860年11月13日) - 昭和6年(1931年)11月20日)は、文部官僚の男爵九鬼隆一の妻。名ははつ(波津)、初子とも。

結婚前に九鬼隆一の実兄の養女となっているので戸籍上は叔父・姪 九鬼家の小間使いだったとか京都の花柳界にいたとゆう説もある 

>明治17年(1884年)、夫の隆一が駐米全権公使となったため渡米するが、明治20年(1887年)、「子宮病・脳病・精神的疾患」(躁鬱病か)により滞米できなくなったため、文部省美術調査員としてヨーロッパからアメリカに来た岡倉天心に身柄を託される形で帰国。



明治20年9月 ゲーリック号は天心と初子を載せてサンフランシスコを出航した


「ハカセ 本編はどうするんですか」
「あのねラクタ君 なかったことに」
「なんででスカー 勉強したのでわ」
「色々資料を読んだり映画も観たりしているとやね こりがなかなかまとめにくいのよ 偉いシトではあるが欠点も多いわけ それが天才とゆうものやけど たしかに天心は本来官僚的なところもあって保身に走ったり いい時はもうむちゃくちゃ良いけれど 逆境になると酒色に溺れて逃げ出したり むらっ気ありすぎのテキトーなおっさんなんよ 聖徳太子みたいな格好で学校に出たり 道士みたいな格好で魚釣りに勤しんだり アメリカや中国やインドに出張するとか外的には躁状態だが 内的には鬱状態になりやすく 天才的アジテーターで 稀代のオルガナイザーで 先進的プロデューサーで ロマンチストで フェミニストで
「それてハカセのことちゃいます?」


・しょの7 来歴6

映画「天心」に出てくる茨城県五浦では 天心の日本美術院のエピソードが詳しく描かれていて 横山大観 下村観山 菱田春草 木村武山の4人 特に春草と大観の家族らの極貧生活が痛々しい 天心はとゆうと弟子が辛酸なめこの間も一応心配はしているのだが 外国行ったり釣りをやったりしていた 観山と武山がそこそこ売れる絵を画いたのに比べて 大観と春草は天心の理想に追随した この二人も釣りをするが こちらは喰うモノに事欠くような状態だったのである
映画では 前半がフェノロサと狩野芳崖との話を中心に初子の絡みはあるものの 後半の天心が失脚し美術界を追われる羽目になった理由が問題 それが「美術学校騒動」(明治31年)である この黒幕が かねて天心と不仲になっていた東京美術学校の図案科教師である 福地復一だ
天心は学校教育での日本画を推進するために 最初は西洋画の講座に力を入れなかったが 平等に取り扱う理念から結局は福地を抜擢して可愛がった ところが天心が中国に美術品の買い付けに行っている間に福地が調子に乗って好き勝手したため 帰国後に橋本雅邦から事情を聞いた天心は一転して福地をいじめにかかる 確かに掌を返すような所は天心の性格にはあった それでこれを逆恨みした福地が有名な怪文書をばらまくのである 学内のシステム批判だけならまだしも 天心の初子とのスキャンダル暴露が致命的となった 本来庇護していたはずの九鬼自身がその当事者(被害者)で関係が悪化していたため 天心の粛清に到る これには九鬼の立場上 てゆかー もともと出身が薩長ではないので政府内での保身のために薩派勢力に阿るしかなかったとゆう複雑な背景があった このときの政変とは大隈重信のクーデターを伊藤博文や岩倉具視がとりまとめたとゆう一件である(詳細は省略) つまり天心には味方がなかったのだ 唯一事情を考慮した幸田露伴でさえ天心に追随して辞職するメンバーを批判した
この福地復一はあまり知られていないが 松本清張の考察によると 意外と才能があって面白い人物ではある ただ時代の趨勢であったと思われる

「ハカセ いよいよインタンタンホームストレッチですよ」
「あのねラクタ君 そげなネタも覚えているシトおらんっ」
「ジョージャウはイってまうし マンドーも終わったして」
「でもないよ エンドクレジットのあとでびっくりおまけ」
「あれも楽しみな予告編です てこた主人公入れ替わりっ」
「アショカだけでなくXまで出てきて最初誰だとオモタさ」
「Xウィングで気付くべきでした セイバー色も緑みたく」
「でそれがカメオだったとゆうね もうなんでもありやな」
「とゆうことは ホワイトフォックスも次のチャプタでわ」
「そのゆい方ではたぶん何のことかわからんのとちゃうけ」
「ネタバレが過ぎるとトレッキーからフォースチョークに」
「そこ 既にSTとSWごっちゃになっとるんでないかい

・しょの8 白狐1

大阪府和泉市の信太山の森に住んでいたという、伝説にみえる白狐。平安時代、葛(くず)の葉という美女に化けて京の陰陽師安倍保名(あべのやすな)とちぎり、一子晴明をもうけたが、その正体を知られて「恋しくばたづね来てみよいづみなるしのだの森のうらみ葛の葉」の一首を残して古巣へ帰ったという。浄瑠璃、歌舞伎などに多くとり上げられている。葛の葉。
※志の田うどんは名古屋だが 関西のきつねうどんとはビミョーに違う(油揚は甘くない) しのだは油揚の別称であり きつねの好物である 信太 信田 志乃田などと表記され 和泉市の信太山が語源説もある
大正2年(1913年)天心50歳 オペラ台本「白狐」を執筆する(英語) その後 健康の悪化で帰国 五浦にもどる 8月赤倉山荘に静養に行く
※新潟県妙高市赤倉は明治39年に天心が初めて訪れ 「世界一の景勝の地」と激賞 別荘「赤倉山荘」を造るとともに 赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようという構想をつくった (バルビソンとはパリの郊外の村でミレーなどが住み多くの画家を輩出したところ) しかしそこに招かれた横山大観と菱田春草は東京から遠すぎるとこれに納得しなかった
同年9月2日午前7時3分 腎臓病がもとで赤倉にて死去
天心は「白狐」に誰を想い描いたのか


・しょの9 白狐2

お待ちかね 九鬼波津子(初子)登場です

天心が海王星の亥 初子は水王星の申とゆうのはお互いにベスト相性ではない
初子からは充実の相性 天心からは健康の相性だが これはさほど悪くもない
ちなみに九鬼隆一は金王星の子である 九鬼と初子がお互いにゼロ相性なのだ
でわ天心の妻基子(元子)はどうだったかとゆうと 生年月日がわからないが
三つ下で丑か寅か卯 星は月か水か金 寅卯なら木王星のゼロとも考えられる
土王星の卯なら海王星の亥の天心と相性がお互いにゼロとなるが これは無い
もしも水王星の丑なら 男を冷やすタイプであり しかもゼロ王星では疲れる
ソクラテスのザンチッピのようにナニがアレだと男は哲学者になるとゆうこと
基子はお茶屋にいたのを拾われたとゆうことであり 無学で無教養だったのだ
夫の卒論を破いてしまったり 嫉妬深くヒステリでいつも天心を悩ませていた
一方天心と初子が初めて知り合ったのは 九鬼と社交界での色んな会席である
九鬼の令夫人として同席していた初子はそのとき基子とも面識があったようだ
初子は亜米利加の社交界でも公使夫人としてその容姿や教養は大評判であった
しかし九鬼が家にまで芸者を呼び込むほどの女癖の悪さに 初子は悩んでいて
これに同情してくれる天心に心を奪われていくのは至極無理もないことだった
天心はとゆうと上司の妻であるが確かに容姿や素養は基子と比べるまでもない
九鬼には離縁した先妻に長男がある しかしなぜ初子を実兄の養子にしてまで
後妻に迎えたかは謎があった 花柳界出身や小間使いだったとゆうのも不確実
スキャンダル発覚後は離婚を迫る初子を精神病院に無理矢理入院させてしまう
これは親戚一同と元文部大臣を始めとする錚々たる18人の證人の連名だった
天心は酒乱とゆうほどでもないが酒が入ると女にだらしなくなる性癖があった
手伝いに来ていた異母姪の貞とも衝動的に関係を持って 子供も産ませている
不憫に思う天心は子供を里子に出し また貞を自分の弟子の早崎と妻合わせる
この子(和田)三郎は 後に帝大医学部を経て医者(精神科)となり なんと
九鬼と別居後も天心に執着し 最後は発狂した 初子の主治医となるのである

さて いつ天心が初子となさぬ仲になったかとゆうと 松本清張とは異なるが
ここでは亜米利加で九鬼に頼まれて共に帰国した船内ではないかとしておこう
そのとき既に初子は先妻の子を含めて四男を妊娠していたことになっているが
初子が帰国後に出産しているわけだから もしも天心の子供を宿したとすれば
おもしろいでしょ

そしてその子が 後の日本屈指の哲学者 九鬼周造 なのである

明治20年9月30日
ゲーリック号はサンフランシスコの港を出発した

「やっと人の目から自由になれましたわ」

船が岸壁を離れると初子は清々したように明るくいった
特等と一等船室にはフェノロサ夫妻とビゲロウ(後述)そして天心 初子は船内の談話室で彼等の浮世離れした会話と天心の通訳を楽しんでいた
あるときビゲロウが 日本女性はいつも受け身で自分の愛情表現をしないと シェイクスピアのロミオとジュリエットを引き合いに出して 西洋の女性は愛に積極的で死をも辞さないといったので 初子は「源氏物語」について話しはじめた
初子は『いくかへりゆきかふ秋をすぐしつつうき木にのりてわれかへるらん』と切り出し この意味を通訳して欲しいと天心にいう 日本の女性も積極的だと反論したのである この時代に源氏物語などを読む女性は居なかった
夕食の後は毎夜ダンスパーチーがあり 天心は誘われるままに初子と踊る そこで二人に芽生えるものはいわずもがなである
ダンスの後天心は初子をエスコートして船室に向かうが 天心の部屋の前でふいに初子は立ち止まった 天心は思わず抱きとめ そして後ろ手に自分の船室のノブを回した
その夜 初子は自分の船室に帰らなかった
 大野芳『白狐』より

巷間 知られているところはこうである

妻が夫の愛人の写真を納棺する話 「この人は不運な人でした。ここに葬ってあげましょう」とつぶやきながら、岡倉天心の妻元子は星崎初子の写真を天心の遺骨と一緒に、分骨された五浦の一角の土饅頭の中に納めた。星崎初子というのは男爵で美術学者の九鬼隆一が京都の花柳界から落籍した元の夫人であった。 明治19年に天心が欧米視察の際にワシントンで特命全権公使九鬼隆一に会い、その委託で初子夫人の帰国をエスコ-トして親交を結ぶようになった。帰国後は九鬼が女道楽に耽っため、初子は悩んだ末協議離婚が成立した。星崎姓に戻り、根岸の二階屋に住んだ。 天心は初子の相談相手になっている間に愛情を交すようになった。
 天心が中根岸に住み、東京美術学校長の頃の明治30年初頭のころであった。天心の妻元子は、天心の上司であった浜尾新に頼み、天心の放縦をいさめてもらったが、おさまらなかった。 この冬天心が谷中の初音町に移ると共に、一時別居していた元子が帰宅した。初子はこれを知って衝撃を受け狂気を発して巣鴨病院に収容された。数年して初子は亡くなった。初子と天心の悲恋物語であり、同情すべき初子の身の上であった。元子が夫天心の墓域の傍らに初子の写真を埋めたのも、今は遠い思い出に、深い同情をそそいだからだと言われる。
大正二年没の天心の墓地は東京染井 同じく基子も眠る(大正十三年) 五浦には分骨した 初子は昭和六年没 九鬼周造は天心の墓の近くに母の墓を建てた

「ハカセ いよいよ濡れ場でスカー」
「あのねラクタ君 安直なこたやんないの」
「芸術的必然性とかゆうんでスカー」
「あのねラクタ君 思いつきだけやないの」
「これも無理してると思いまスガー」
「映画の濡れ場は割とあっさりだったがの」
「ヌけば紙散る香りの濡れ場トカー」
「抜けば血が出る患者の八重歯だったりの」
「高尚な展開にはならんのでスカー」
「そうだなぁ 鯵屋の曙てのはどうかいの」
「開け鯵とかわからん思いまスガー」
「コーシンのネタだが やっぱ知らんかの」
「とにかく山場ですから早よ次行きましょ」


・しょの10 白狐3

なんで今回 茶樂になっているかとゆうと 茶の本があるからです
軽茶は(いまのところ)語り部に終始しているだけで 天心に乗り移るわけではなく 初子との濡れ場もありません(キッパリ
天心は日本美術史の重要人物だが 絵を画いたのではなく いくつかの(英文の)著作だけである またそれだけではなく天心の思想や行動そのものに神髄があった

著作(原文)
『東洋の理想』(The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan -1903)
『日本の目覚め』(The Awakening of Japan -1904)
『茶の本』(The Book of Tea -1906)
『東洋の目覚め』(The Awakening of the East -1902)
『白狐』※オペラ脚本 -1913
これらは西洋人のための日本ガイドブックではない

芸術論を通じてインドや中国を含む東洋のいや日本の思想とゆうものを西洋人諸君に教えてやった自負とゆう功績である 後に国粋主義に利用されるがもともとは少し違う むしろグローバル 西洋と東洋の二匹の龍を茶気に込める

天心の外国での逸話で有名なものは
1903年(明治36年)、岡倉はアメリカのボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田春草らの弟子を伴って渡米した。羽織・袴で、一行が街の中を闊歩していた際に、1人の若いアメリカ人から冷やかし半分の声をかけられた。「おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。そう言われた岡倉は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。

What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?
We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?

考察しているヒマがないので松岡正剛先生から勝手に引用する

『茶の本』のまとめ
01. 西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。
02. いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。
03. 茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。
04. われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。
05. 花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。
06. 宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
07. 出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。
08. 数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。
09. 茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。
10. われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。

さて 芸術は術である 美術も術 音楽は楽 文学は学 しかし 茶道や花道は「道」である 道とはタオである その道とはどこからどこへ続くのか


・しょの11 白狐4

初子の子 九鬼周造は 母が精神病院に入院していることもあったが 幼い頃から天心にいたく可愛がられ 天心のことを実の父親ではないかと思っていた
また天心の実弟由三郎は東京放送局(現NHK)で日本最初の英語講座を持っていた そしてその声は周造とそっくりであったとゆう そして由三郎の長女信子の夫プロレタリア作家の藤森成吉は初子が入院した松沢病院で掃除夫をしていて初子を知っていた 由三郎も天心の死後に松沢病院に初子に面会をしている 天心が異母姪の貞に産ませた(和田)三郎も精神科医になり初子の主治医になったことは前述した 因縁である

恋多き男であったかはともかく
ぢつわ天心には晩年もう一人の恋人がいた それは長らく知られていなかったが 由三郎の手元に保管されていた13通の手紙と その相手方の遺品からも天心の19通の手紙が出てきたのである 死期を悟った天心が五浦の六角堂で書いていたのはその手紙である

私は、海辺に座って、一日中、海が逆巻き、波立つのを眺めています。いつか海霧の中からあなたが立ちあらわれてこないかと思いながら。いつか、あなたは、もっと東の方においでになりませんか――中国へ──マレー海峡へ──ビルマへ。ラングーンなどカルカッタから石を放り投げるほどの距離にすぎないではありませんか。空しい、空しい夢! でも、なんと甘美な夢か。
これまであんなに頑健だった私が、やっと、生きることの喜びを味わい始めたその時に、こうして病に倒れねばならないというのは、なんと奇妙なめぐりあわせでしょう。きっと、若い時に、野蛮な無茶ばかりしてきた罰があたったのでしょう。しかし、私は宇宙と全くうまくやっており、宇宙からこの頃与えられるものに対して感謝、そう、大変感謝しています。
私は本当に満足しており、暴れだしたいくらい幸せです。この部屋まで入り込んできて、枕のまわりで渦巻いている雲に向かって笑いかけるほどです。


「ハカセ 天心を気取るならナニか書きます?」
「あのねラクタ君 天心は絵より文章なんよな」
「そこをどう表現するかが腕の見せ所でしょ?」
「あのねラクタ君 それがなかなかムズいのよ」
「文体分析でトップだったんでしょ考えれば?」
「とりま今年の分を並べてごまかすとするかね」
「いいですけど今年はあんまり画いてないで?」
「てこた去年の分を並べてごまかしておこう」
「ところで昨日の精密検査はどうでしたか」
「それがねー 今回は異常なかったんよ」
「あの血圧と頭痛は何だったんでスカ」
「仁のネタにはなったが別の解釈が」
「そこでなんぞオチができるかも」
「まだナンモ考えてないのよね」
「ええっもう時間ないですよ」
「時間は自由に操れるはず」
「はいはいいつもの事で」
「土壇場にはツオイが」
「濡れ場には弱いと」
「修羅場では困る」
「経験値の問題」
「知らんけど


「ハカセ たぶん必要かと思いまして資料をご用意しました」
「あのねラクタ君 ??いところに手が届くとはこのことやね」

・資料

130年前の1890年(明治23年)彼等は何歳であったか

天心 27歳(亥)東京美術学校初代校長※副校長はフェノロサ
基子 24歳(寅)
初子 30歳(申)
貞  21歳(巳)
プリヤンバダ18歳(申)
九鬼隆一  38歳(子)
九鬼周造  02歳(子)
フェノロサ 37歳(酉)
ビゲロー  30歳
狩野芳崖  68歳(戌)※存命なら(明治21年没)
高橋由一  62歳
横山大観  22歳(辰)
菱田春草  16歳(戌)
下山観山  27歳(酉)
木村武山  14歳(子)
西郷孤月  17歳
今村紫紅  10歳
小林古径  07歳
六角紫水  23歳
板谷波山  18歳
高村光雲  38歳
新納忠之助 22歳
平櫛田中  18歳
安田靫彦  06歳
前田青邨  05歳
橋本雅邦  55歳
黒田清輝  24歳
福地復一  27歳
夏目漱石  23歳
森鴎外   28歳
坪内逍遙  31歳
幸田露伴  23歳
西田幾太郎 20歳
鈴木大拙  20歳
福沢諭吉  55歳
伊藤博文  49歳
大隈重信  62歳
岩倉具視  65歳
大久保利通 60歳 ※存命なら(明治11年没)
木戸孝允  57歳 ※存命なら(明治10年没)
陸奥宗光  46歳

1890年とゆうとヨーロッパではベルエポック
世紀末デカダンスの時代

ドガ 56歳
モネ 50歳
ルノワール 49歳
ゴーギャン 42歳
セザンヌ 41歳
ゴッホ 37歳
ミュシャ 30歳
ムンク 27歳
ロートレック 26歳
カンディンスキー 24歳
マティス 21歳


・しょの12 白狐5

『ベンガルの憂愁』(大原富枝)はとても素晴らしかった
天心は自分が死ぬまで 初子が精神病院に閉じ込められていたことを知らなかったのである 知っていれば会いに行くはずだ
これは九鬼隆一が元文部大臣などを始めとするものものしい連判状で病院に圧力をかけたことにより 強制的に天心から引き離したと思われるが 初子はそもそも天心と知り合う前から いや九鬼との結婚当初から別れたいと思っていたようだ 特にスキャンダル以降には天心の所に行こうと何度も離縁を要求するが 夫婦として天皇に拝謁した以上離婚は出来ないと拒否され続ける それだけが理由だろうか しかもなぜ先妻を押しのけてまで初子を娶ったかも不明である 九鬼は出世欲の塊のような人物で当初長州の木戸孝允についたあと主流の薩派に鞍替えしたり 天心が排斥される折にも自分が連座させられることを恐れて画策した経緯もある
天心はとゆうと最後まで特に九鬼に敵意を持っていなかった むしろ九鬼内閣!の元で自分が文部大臣になりたいとゆうような構想すらあったのだ
而して晩年の天心がプリヤンバダとの遠恋にいたったのはむべなるかな
その想いはいかばかりであったか
かつて福井で天心像を見たときや 文体分析でもぴんと来なかったのだが
今回 関係書籍や資料を沢山調べていろんな事がわかり認識を新たにした
天心の文書は口述筆記したものを自身が校閲したものである 話し言葉の韻律的表現を構文や語彙を選んで句読法で手がかりを与えることは難しい 例えば なぜ『The Book of Tea』のタイトルなのか そして著者名は英語表記順の KAKUZO OKAKURA ではなく OKAKURA KAKUZO である点だ これはOの文字配列による絵面インパクトを狙っている また禅語の「円相○」とゆう文字ならぬ文字の「悟りの境地」を表してもある この音韻文体論や詩的作為については納得できる所が多い
そこを茶楽と天心に重ねるつもりはなかった ただ天心の足跡を辿っているうちに あるお方に色々と御示唆いただいたことによって また書簡を重ねることになったのは巡り合わせとゆうものである 中国へ そして印度へと その道は同じく続いていたのかも知れない
今年は現地取材が思うようにできなかったので 五浦六角堂も赤倉六角堂もストリートビューで散策した ボストン美術館にも入ることができた ただ中庭部分ではなく『天心園』なる場所がどこにあるかはわからなかった 館内にモネの『睡蓮とラ・ジャポネーズ』も見つけたが ここに所蔵されているはずのゴーギャン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は見つけられなかった いづれ訪れる機会はあるかも知れない 名古屋の分館は何年も前に閉館しているのだ


十二万年明月の夜に
宝石の声なる人に

「ハカセ いちおう大団円でスカー」
「あのねラクタ君 当初考えていたプロットとはかなり変わったが そこはオンライン進行もあってポストモダンシュニッツラーで補足したから いつもよりはわかりやすく解説したつもりぢゃ 書き足りないところはまだあったし オチについてはちょっと問題もあって そこは今後の宿題かな とりまクリスマスまでになんとかカッコついて良かったんちゃうの」
「てこた まだ何かあるんでスカー」
「ない
「あらま でもカッコ閉じてないところをみると
「今日は天心のお誕生日なのっ


茶樂 しょの後日談

軽茶が茶に拘るのは軽口とお茶ではなく色である 海王星の人気色のひとつでもある茶色には沢山の種類がある

思ひそめ茶の江戸褄に
母うへのめでたまひつる白茶いろ流行はやりと聞くも憎からぬかな

白茶 御納戸茶 黄柄茶 燻茶 焦茶 媚茶 千歳茶 鶯茶 鳶色 煤竹色 銀煤色 栗色 栗梅 栗皮茶 丁字茶 素海松茶 藍海松茶 かわらけ茶 芝翫茶 璃寛茶 市紅茶 路紅茶 梅紅茶 など「茶系」の日本の伝統色は72色もある
茶色とはいかなる色かとゆうと 赤から橙を経て黄色に至る派手やかな色調が黒味を帯びて飽和の度を減じたものである 茶色が「いき」であるのはこれが諦めを知る媚態と垢抜けた色気を表現しているからである

粋な色とゆうのは 華やかな体験に伴う消極的残像 過去を擁して未来に生きる 個人的または社会的体験に基づいた冷ややかな知見が可能性としての「いき」を支配する
(九鬼周造)

フェノロサは東大でヘーゲル哲学を教えていたので 「哲学的考察は偶然的なものを排除するという以外の意図はもたない」などとゆう考えがあった
マー たまたまとか偶然などとゆうのは「我々の認識に欠陥があるからだ」とゆうスピノザとか 「幸運とか運命などの概念は不当に獲得されたものだ」とゆうカントとか 現象学のフッサールも「理性主義の立場上 偶然は存しない」などであって 数少ない例外はライプニッツが「偶然的真理」で説明している この『偶然の諸相』に挑んだのが前述した日本屈指の哲学者九鬼周造である

今回の話は ぢつわ天心ではなく九鬼周造の予定だった
周造の来歴は
日露戦争のさなか一高二入り谷崎潤一郎らと出会う 次に哲学を目指し東京帝大哲学科に入る 途中でキリスト教の洗礼を受ける カトリック司祭の岩下壮一の妹に大失恋 大学院へ 卒論は「物心相互の関係」 しかし大学院を途中で放棄ハイデルベルク大学に留学 新カント派に師事する その哲学に限界を感じて フランスに飛びサルトルに習い ベルグソンを知る 欧羅巴で周造が考えたのは「寂しさ」と「恋しさ」とは何かというものだった そのような感覚が「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあること」によって卒然と成立することに思いいたり ついに東洋的な「無」の大切を知る さらにドイツに戻ってハイデガーに師事する これらの行脚は「二人の父の間」と「不在の母」によってもたらされたものであった 欧羅巴では恋愛の基底に自己同一性や自己発見をおいているので そこには「無」の解釈は不十分であったとゆうことだ その想いは帰国後に一気に書き上げた「いきの構造」に集約される
>日本の美が浮世の片隅において磨きに磨いた「いき」こそが、あるいはその「いき」の感覚を交わしうる相手との出会いこそが、美の堪能であって、無の堪能だったのである。九鬼の新たな哲学は、いや存在学は、こうして一気に「婀娜な深川、勇の神田」に向かっていく。
二度目の夫人は祇園の芸者である

「父(九鬼隆一)は岡倉氏に関して、公には非常に役に立ってもらった人だが、家庭的には大変迷惑をかけられたという風に云っていた」」
「私がいったいひっこみ思案だからでもあるが、母を悲惨な運命に陥れた人という念もあって氏に対しては複雑な感情を有っていたからでもある」
「岡倉氏が非凡な人であること、東洋美術史の講義も極めて優れたものであることはきいていたが、私は私的な感情に支配されて遂に一度も聴かなかったのは今から思えば残念でならない。西洋にいる間に、私は岡倉氏の『茶の本』だの『東洋の理想』を原文で読んで深く感激した。そうして度々西洋人への贈物にもした。やがて私の父も死に母も死んだ。今では私は岡倉氏に対して殆どまじり気のない尊敬の念だけを有っている」(『岡倉覚三氏の思出』九鬼周造)


---筆濃くまだ未完らしい


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